標高195mの歴史を感じる龍ヶ峰城跡。
龍ヶ峰城跡の特徴
龍ヶ峰城跡は戦国時代の貴重な遺構が魅力です。
山の中にあり、夕日が綺麗で眺望が素晴らしいです。
整備された公園内で、気軽に散策を楽しめる環境です。
標高195mにある山城、竜ヶ峰城跡地に作られた公園となります。立入禁止区域がありました。人気が少ないので野生動物対策があると良いかもしれません。
地震被害の影響か崩れて立入禁止区域がありました。
戰國時代の遺構とのことですが… 入口は土砂で埋まってゐるし、前後の道は落ちた枝や葉で埋まってゐるしで、災害から復舊してゐないやうです。地元の方が少しづゝ片附け始めてゐるやうですが、訪問はもう少し先が良いみたいです。
狭い道を対向車が来ないことを祈りつつ数分走ると到着です。今年の雪で柵などが結構倒れていますのでお子様連れなら目を離さないで下さい。景色はとても良く心が癒されます。滅多に人もこないので、ときどきワンコとおにぎり(コンビニですが)持って遊びに行きます。ちゃんとゴミは持ち帰ってますよ。
夕日がきれいでした蛇もいました山の中なので当たり前ですが。
人が少ないのてすがしっかり綺麗に整備されており、眺めも一望できます。
標高195Mの山城で🅿️も完備、気軽に散策出来る環境になっています。城は大きくもなく建物も有りませんが、堀切や郭等の遺構が分かりやすく残っています。土豪の村上氏が城主だった様で、戦国期 能登に侵攻してきた上杉謙信によって落城している様です。その後 越中の佐々成政と金沢城の前田利家と軍事的緊張が高まっていき、龍ヶ峰城は佐々成政の城として抗争の舞台になった様です。
城ヶ峰山頂にあります。戦国時代の遺構で現在は公園として整備されており、駐車場やトイレもあります。本丸山頂からの景色と風はすばらしかったです👍
一人でホッとしたいときにおすすめ。
| 名前 |
龍ヶ峰城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| HP |
http://kankou.town.tsubata.ishikawa.jp/content/detail.php?id=62 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
|
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龍ヶ峰城跡は、加賀と越中の国境を押さえる重要拠点として知られ、戦国時代には上杉謙信や佐々成政らの軍勢が対峙した記録が残る。主郭の構えや堀切など遺構も良好に残り、交通の要衝に築かれた山城の姿を今に伝えている。龍ヶ峰城(りゅうがみねじょう)は、河北郡津幡町原に所在する中世山城である。現在は津幡町指定史跡として整備されており、標高約195メートルの丘陵上に展開する城郭遺構が良好に保存されている。山頂からは北陸道(旧北陸道)を一望でき、倶利伽羅峠に向かう交通路を扼する地に位置する。築城時期は定かでないが、現地説明板によれば、一向一揆に加担した加賀土豪の村上右衛門が在城したと伝えられる。その後、天正年間に上杉謙信が攻撃し、一時本陣を置いたとされる。上杉氏の撤退後は、織田政権下に入った越中国の佐々成政が加賀方面への拠点として利用したといわれる。天正12年(1584)には、佐々軍の将である佐々平左衛門と、前田利家の弟・前田秀継が争ったとされ、数度にわたる戦闘の末、前田軍がこの城を急襲し奪取したという記録が残る。敗れた佐々方の一部は南方の唐木久万に撤退したと伝えられており、この戦いを境に加賀と越中の境目は前田方が優勢となった。構造面では、主郭が尾根の頂部に設けられ、その南北に副郭が段状に展開する構えとなっている。郭の周囲には堀切や土塁、空堀がめぐり、特に北側斜面には畝状空堀のような連続構造が確認されており、攻め手の進路を制限するための工夫が見て取れる。江戸後期の地誌『三州地理雑誌』には、「上藤又村山、東西十五間、南北五間。南に一段下がって東西二十六間、南北十間」と記されており、城内の主要郭に関する古記録として注目される。また『河北郡誌』には、城跡の郭内に泉があったとする記述が見え、山城としては貴重な水源を有していた可能性が指摘される。こうした地形や遺構は、自然地形を活かしつつ巧みに築かれた中世城郭の特徴を備えている。現地には龍ヶ峰城跡の石碑と説明板が設置されており、山頂までの登路も整備されている。主郭からは河北潟や内灘砂丘、日本海を遠望できる見晴らしが広がっており、当時の戦略的な立地を実感できる。また、同時期に築かれた周辺の城郭—津幡城、朝日山城、一乗寺城、倶利伽羅峠の砦など—との連携によって形成された境目防衛のネットワークの一端を担っていた点も見逃せない。龍ヶ峰城跡は、派手な石垣や櫓を持たない土の城ながら、加賀と越中の国境をめぐる複数の大名間の駆け引きの中で、その都度役割を変えながら活用された記録が残る。時に一向一揆の拠点として、また時に上杉軍の陣として、さらには佐々成政の前線拠点として。そして最後には前田勢によって奪取されるという多層的な歴史を帯びた城跡である。なお、前田秀継は龍ヶ峰城を奪取した功により、後に越中木舟城主となったが、天正13年の飛騨・越中地震で城が倒壊し、妻とともに圧死したと伝えられる。その最期には「神罰によるもの」とする風説も広まったという(『石川郷土史学会誌』に紹介あり)。このような人物の運命までも取り込んだ城の記録は、戦国末期の緊張感を今に伝える貴重な手がかりとなる。龍ヶ峰城跡は単なる遺構ではなく、地域における中世城郭の機能・構造・政治的役割を総合的に知ることのできる重要な史跡である。津幡町の他の関連遺構や、倶利伽羅峠の古戦場とあわせて訪ねることで、この地域が担ってきた歴史の重みをより深く理解することができるだろう。