戊辰戦争の舞台、歴史の息吹。
供中口古戦場の特徴
戊辰戦争の歴史が色濃く残るスポットです。
三浦権太夫義彰が自刃した地が見られます。
思いが伝わる十字架が訪れる人々を迎えます。
こんなところにに十字架があるなんて❗
戊辰戦争時の古戦場跡です。場所は少々わかりにくいですが、”二本松藩”の旗が目印になります。
ここは戊辰戦争時、二本松藩農兵司令 三浦権太夫義彰が自刃した地です。王政復古派の義彰は弓矢の鏃を取り捨て狩衣姿で出陣し「尊王の士」であることを表し戦い、形成不利になると自軍兵を撤退させここで一人自刃しました。思想はあるが二本松藩に殉じた武士の一人です。
| 名前 |
供中口古戦場 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
0243-55-5122 |
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
|
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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❷【参考 小浜町郷土読本 1977年】明治元年7月27日 西軍の一帯は当町に入りました。一隊は本宮を占領しました。土州(土佐藩)の断金(※1だんきん)隊長 美正菅一郎(みしょう かんいちろう)の戦死も、丹羽の鬼鳴海(大谷信古)の名をあげたのもこの日この時の戦でありました。白河出陣、小野新町出陣の二本松勢は引き上げました。城中会議は開かれました。主戦論が勝ちました。その日、藩主及び藩士家族は米沢藩に立ち退くこととなりました。29日佛暁(ふつぎょう・よあけ)西軍の総攻撃がはじまりました。供中口では藩の勤皇主義者であり、帰順論者でありました三浦権太夫(義彰)が討ち死にしました。大壇口(おおだんぐち)では青山(助之丞)山岡(栄治)の2荘士が薩軍の先鋒を斬り靡けました。木村銃太郎の率いる少年隊も良く戦いました。当郡平石在 武藤鬼一(武藤利直)の編成したる博徒(ばくと)等の一隊、島組は仙台藩士、細谷十太夫を肝入りとして、伊達の手渡城を占拠して食料を奪い、郡山の16人組等と策応して西郡を悩ませました。小浜長折の村社 諏訪の祭の 三疋獅子(さんびきししまい)の囃子(はやし)が西軍の勇将を走らしたという挿話(そうわ)も又この時のことであります。けれども、大ぜいにはかないませんでした。午後十時には西軍はすでに城下にせまりました。大城代の 内藤四郎兵衛 は城門内に戦死しました。主戦論者の巨擘(きょはく・巨頭という意味) 丹羽一学、丹羽新十郎 及び 小城代の 服部左衛門 は大書院に割腹しました。和議論の主張者でありました小城代の 丹羽和左衛門 は本丸に於て自刃しました。勘定奉行の 安倍井又之丞 は之に殉死しました。城は焼け落ちました。藩祖光重(みつしげ)公入部以来の当藩は、ここに終焉を告げました。とある。※1断金隊・・土佐藩(新政府)の遊撃部隊_________________佐幕派である二本松藩内にあって、勤皇主義者であり、帰順論者であった三浦権太夫義彰は 維新殉難者として靖国の英霊の1柱として祀られている。❶【参考 靖国神社臨時祭記念写真帖 1935年】靖国神社の英霊として祀られている。「維新殉難者」 の蘭に「旧二本松藩士 三浦権太夫義彰 福島県安達郡二本松町」とある。