江刺氏の城跡、歴史探訪の宝庫。
岩手県奥州市岩谷堂城址の特徴
室町から戦国時代の有力国人・江刺氏の居城だった場所です。
比高約80mの丘陵に位置し、美しい景観が楽しめます。
手入れが行き届いた城跡公園でアジサイを楽しめるスポットです。
室町から戦国時代は有力国人・江刺氏の居城だったと伝える。姻戚関係にあり、主家でもあった葛西氏とは江刺の領有権をめぐって度々抗争したようだ。江戸時代には伊達氏一門の岩城氏が入城し、仙台藩21要害の北辺の守りとして機能した。現在は「館山史跡公園」として整備されている。「えさし藤原の郷」方面から行くには人首川に架かる「夢乃橋」を渡れば、すぐに城跡公園の入口になる。橋から見下ろす人首川は深い渓谷を形成し、まさに断崖絶壁、東京お茶の水の「赤壁」などの比ではない。東南の防備は完全であることがよく分かる。
それほどメジャーな史跡ではない為、地元の方でもあまり訪れる人はいないようです。自分が来た時も散策やウォーキングで歩いている方だけで史跡を見に来ている方は皆無でした。案内や解説板もしっかりとあって史跡巡りの方にも親切な造りです。逆にゆっくり静かに見て回るのには最適です。紫陽花が沢山植えてあって梅雨の季節に来るのも良いかと思います。
城跡の公園は手入れが行き届いて綺麗でした。小道を登って行くと、お休みするベンチなどがあります。さらに上に上がるとお寺があって周りには紫陽花がたくさん植えられていますので、これからの季節には綺麗に咲き誇ると思います🎵また近くにはとても高い橋がかかっていますので、岩谷堂の町並みを見ることが出来ます。
2022年9月25日に訪れました。鎌倉時代から城が存在したと言われていますが、手がかりとなる事物が見つかっていません。室町時代に江刺氏が城を整備して、江刺城とも柄杓ケ城とも呼ぼれていたようです。豊臣秀吉による奥州仕置の際、重臣大谷刑部吉継によって改修され、伊達政宗に引き継がれます。江戸時代に仙台藩領となりました。城主に配置されたのは、桑折氏、次いで伊達氏一門岩谷堂伊達氏(本姓岩城氏)でした。2代藩主伊達忠宗の7男宗規に継がせ、以来9代二百年にわたり岩谷堂伊達氏が治めました。藩政期には、二の丸(今のソフトボール球場)に中枢機能を移し、要害として盛岡藩との藩境を防備しました。御館山全体が山城となっている構造です。
江戸時代には伊達21要害の一つとなったところ。近くには豊田館跡がありますので、セットで行くのがおすすめです。
えさし藤原の郷に行く前に寄りました。城跡ですが、整備されていて、眺めも良かったです!
比高約80mの丘陵上に位置し、頂部が中世時代の主郭であった。主郭は東西約80m×南北約100mの規模の楕円状であり、周囲に土塁をめぐらせ、北側・東側・南側には帯郭が位置していた。当時の大手は東側に位置していたという。主郭の南西側には空堀と帯郭・中ノ郭を隔てて東西約100m×南北約150mの規模の二ノ丸が位置していた。らにその西側には三ノ丸が位置しており、二ノ丸から三ノ丸にかけて南西方向に大手口が伸びていた。現在、本丸には館山八幡神社が祀られており、中ノ郭は公園として整備され、本丸・中ノ丸は館山史跡公園として整備されており、土塁・空堀が明瞭に残る。二ノ丸は岩手県立岩谷堂高校グラウンドに、三ノ丸は岩谷堂高校敷地・奥州市立岩谷堂高校小学校の敷地と住宅地になっている。
アジサイが咲いてる時期はいいですよ。
万治2年(1659)の伊達(岩城)宗親入城以後、明治維新で破却されるまでの200年間、岩谷堂伊達家5,000石が居城とした。柄杓ケ城ともいったが、「岩谷堂要害屋敷」が正式名。城跡には、現在も土塁や空堀、水堀などが残る。
名前 |
岩手県奥州市岩谷堂城址 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
4.0 |
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岩手県の名所旧跡はかなり見て廻ったつもりでいましたが、ここを訪れたのは初めてになります。奥州藤原氏が平泉に移る前の城跡である事を知りました。