皇居ランナーの待機所、和気清麻呂像。
和気清麻呂像の特徴
大手町の皇居近くに立つ和気清麻呂像、圧巻の存在感です。
8世紀に道鏡の野望を阻止した皇統の守護者、和気清麻呂の銅像です。
皇居ランナーの集合場所としても便利な清麻呂公園内に位置しています。
和気清麻呂a.k.a 別部穢麻呂の立派な像です。宇佐八幡宮に行き宣託が真実か確認しに行った役人ですね。彼の働きにより道鏡が皇位につくことは阻止されましたとさ。皇族の皆様は清麻呂に足を向けて寝れないですねー。
和気清麻呂は僧であった道鏡を皇位に就く野望を阻止し皇統を守ったとされ、楠木正成と並ぶ勤皇の忠臣として有名な人物です。何となく将門塚の方を見据えているように見えるのは、朝敵であった将門を封印しているのでしょうか⁉️和気清麻呂と平将門にちょっとした関係性があります。平将門の乱の時、朝敵(平将門)調伏のため、弘法大師空海の密勅を受けた真言宗遍照寺の寛朝大僧正が、21日間の護摩祈祷を行った場所が成田山新勝寺の開山起源となりました。その時の不動明王像が和気清麻呂が開基した京都神護寺の護摩堂に空海によって敬刻開眼し鎮座していたものであり、成田山新勝寺のご本尊となっています。鬼門であるこの地であちらの向きに建立されているのはそんな理由があったりなかったり⁉️
東西線竹橋駅から出てすぐ皇居が見えて銅像がありました。※2024年3月14日。
昭和15年に造られたというが再開発でもされたのか極めて綺麗な一角となっている。日比谷の楠木正成が武の忠臣ならこちらの和気清麻呂は文の忠臣。将門塚の方角を睨むように立っているのがちょっと気になった。
近くに騎馬像がある楠正成と同じく勤皇の忠臣とされ、戦前には紙幣の肖像が印刷された人物です。しかも、お札の肖像画は、当代一流のキヨソーネが描いた木戸孝允の肖像画を修正した肖像画でした。道鏡と天皇の意に沿わない宇佐八幡宮の神託を持ち帰ったため、不興をこうむり流され、その時に、別部穢麻呂と改名させられた等、とっても大人げない話を聞いて、その名前が記憶に残っています。そんな不名誉な境遇に負けなかった方に相応しい威厳のある銅像です。とは云え、誰の銅像だろうか。という感じで、石碑を眺める人も多く、見晴らしの良い公園に建つ風格のある銅像のようです。
■和気清麻呂像/1940/佐藤清蔵東京都千代田区にある銅像。皇居平川門近くの大手壕端にある和氣清麿のブロンズ立像。作題:和気清麻呂像作者:佐藤清蔵建立:昭和15年 (1940) 2月寄贈:石川博資●和気清麻呂(わききよまろ)の銅像は大手濠緑地にあってやや南の大手門辺りを向いて配されている。清麻呂が宇佐神託を復奏するため宮中に登る姿が描かれた像。高さ4.2mと大きく数多い清麻呂の像の中で最も著名な銅像。昭和15年に皇紀2600年を記念して、大日本護王会と清麻呂公銅像建設期成会が銅像作成を計画し、朝倉文夫、北村西望、佐藤清蔵の三氏に作成を依頼。しかし、事前説明の不備から三者による競作と知らなかった朝倉文夫は原型を仕上げた段階で辞退し、此の作品が選ばれた。◎和気清麻呂は京都へ遷し、崩壊しかけていた律令政治の立て直しを図った。天皇に重く用いられ、摂津大夫、民部大輔、中宮大夫、造宮大夫、民部卿など朝廷の要職を務めた。◉寄贈者の石川博資は、京都洛東の東山の麓に山崎朝雲作「霊山観音」(りょうぜんかんのん)を寄贈されている。此の白い観音像は平和日本の建設と殉国の英霊や大戦の犠牲者の冥福を祈念するため昭和30年に建立されている。
皇居東御苑平川橋のすぐ側、大手濠緑地内に高さ4m20cmの和気清麻呂像がそびえています。和気清麻呂は、769年に道鏡の皇位就任の野望を挫き、大隅に配流されましたが、その後に復帰し光仁天皇・桓武天皇に仕え、平安遷都のために活躍しました。この銅像は、佐藤朝山の作で昭和15年に紀元2600年を記念し建立されたものです。
和気清麻呂像、道鏡の野望を阻止して皇室を護ったという事で皇居のお堀端に像が有ります。地下鉄東西線竹橋駅側。
和気清麻呂の銅像です。東京メトロ東西線の竹橋駅出て直ぐの場所にあります。皇居のお堀に接しています。
名前 |
和気清麻呂像 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.9 |
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大手町の皇居一角に佇む和気清麻呂像。奈良時代、藤原仲麻呂の乱を平定した功績で知られる和気清麻呂は、文武両道の才に優れた人物として歴史に名を残しています。この像は、昭和15年に建立され、皇居を背に堂々とした姿を見せています。和気清麻呂の穏やかな表情と、力強い立ち姿は、見る者の心を打ち、その生涯を物語っているかのようです。