三戸南部氏の歴史を感じる。
史跡 聖寿寺館跡(本三戸城)の特徴
三戸南部氏の居城跡で歴史を感じます。
学芸員による詳しい説明が魅力です。
開放的な場所で見学が楽しめました。
2025.10.26の訪問。聖寿寺館跡は室町時代初期の14世紀末頃に三戸南部氏が築いたされていて室町時代末期の天文8年(1539年)に三戸城(三戸町)に移転しました。丘陵地に位置していて北側や西側にかけて空堀や南西側に空堀と土塁らしき遺構が確認できます。
現在発掘調査は終了し、発掘現場は埋め戻され平坦な緑地になってます。(写真や動画のとうりです)史跡 聖 寿 寺 館 跡(本三戸城)📸 2025. 9. 28現地説明板より『 聖寿寺館跡は、東北北部最大の中世武士団であった南部氏の室町時代から戦国時代にかけての居城です。周囲に平良ヶ崎城・佐藤館・小向館・馬場館が置かれ、防御を固める一方、まわりを奥州街道や八戸・鹿角街道、馬淵川などに囲まれ水陸交通の要衝でもありました。聖寿寺館が天文8年(1539)に焼失したのを契機に、三戸南部氏は三戸城へと移り、さらに福岡城(二戸市)を経て、江戸時代初期には盛岡城(盛岡市)へと移っていくこととなります。 』
南部氏史跡。2020年10月19日来訪。三戸南部氏の城館跡。南部氏は前九年の役、後三年の役で活躍した、源義家の弟の義光に端を発する一族であり、始祖は、源頼朝に与して戦功を挙げ、甲斐国巨摩郡南部郷を与えられた南部光行である。南部氏が奥州に入った経緯、時期は定かではないが、鎌倉時代末期に入部したとされる。奥州に入部した南部氏の氏族は、八戸氏や一戸氏等、それぞれの領地の地名を名字としたが、三戸南部氏は宗家として、そのまま南部氏を名乗り、室町時代には聖寿寺館を中心として糠部を治めていた。戦国時代に入ると、南部信時から晴政までの代において、南部氏は勢力を拡張するが、1539年、南部晴政の代に家臣の赤沼備中による放火で聖寿寺館は焼失し、その後南部氏は三戸城を本拠とした。当史跡は、館のあった聖寿寺地区、南部氏の菩提寺がある三光寺地区、氏神である本三戸八幡宮地区で構成されている。聖寿寺館跡は、周囲よりやや高い丘陵地にあり、西側は断崖、東側と北側は大堀で守られている。史跡自体は北西の館神と呼ばれる祠を最高地点として、南東に向けて緩やかに傾斜がついた草地となっていて、私が訪ねた時は、まだ発掘作業が続いていた。また一部の建物跡に平面復元が施されている。南部氏の史跡としては、根城や九戸城と並ぶ重要な史跡であり、戦国史好きとしては非常に興味が注がれる史跡である。東側に史跡聖寿寺館跡案内所があり、同史跡に関する展示を見ることができる。第27代南部氏当主利直の四男南部利康霊屋拝観の受付(有料)もここでしている。
三戸南部氏の居城跡。現在は発掘作業中でもあり、案内板以外の観光用設備、舗装等は設けられていません。
もともと三戸南部氏が居城していた場所。現在は発掘作業で色いろと遺構が見つかっている。国指定史跡に指定されており、倉庫や工房のあとという説明看板がありました。陶磁器や金属製品などが出土したそうです。御城印は近くの史跡聖寿寺館跡案内所で買えます。
広々として気持ちの良い場所でした。トイレがあるといいです。
2021年6月13日に見学しました。南部氏は、鎌倉時代末には、この地に入部していたと考えられます。天文8年1539年に焼失したと伝えられています。その後、三戸城へ本拠地が移って行きました。この居館は、南部氏発祥の地ということになります。
発掘調査終わればまた来ます。
埋め戻してるので基本ただの開けた場所でした。堀が少しと高低差は確認できるのですがね。
| 名前 |
史跡 聖寿寺館跡(本三戸城) |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0179-34-2132 |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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南部氏の館跡ですが、雪の有る季節は避けた方が良いでしょう。