迫力満点!
鍋島直正公銅像の特徴
佐賀城鯱の門北側に平成29年再建、大迫力の鍋島直正公銅像が鎮座しています。
城入口にあるため見やすく、ゾンビランドサガの聖地としても注目され記念撮影に最適です。
幕末の名君、鍋島直正の銅像。佐賀城の古地図を確認すると、実はここは水堀の上にある面白さ?
これまで数多く歴史人物の銅像を見てきたが、今日見上げた鍋島直正公の銅像は、綺麗で威厳があり、かなりの迫力があって見応えがあった。家に帰ってからこの銅像が割と最近に作られたことを知り、宜なるかなと改めて感じた次第。思うにこの直正公像は秀作です。
無料の駐車場とトイレの側に建っている銅像。NTTの塔と烏帽子姿の対比が、過去と現在の対比みたいで、面白い。近くに、ゾンビランドサガ のマンホールも設置してあった。
鍋島直正公佐賀藩9代藩主・鍋島斉直の嫡子として江戸の佐賀藩邸に生まれる。17歳で家督を継ぎ10代藩主になると様々な改革を断行し、佐賀藩を幕末の雄藩にのし上げた。家督相続当初、藩の財政は逼迫していたため、直正はまず粗衣粗食令を出し、自らも率先。藩の役人の大幅なリストラ、借金の整理、磁器・茶・石炭などの産業育成を通して財政改革を行った。鍋島直正公は、そんな佐賀藩の10代目のお殿様で、今も歴史に名前を残す偉人「佐賀の七賢人(しちけんじん)」の一人として知られている。この銅像が生誕200年を記念して、佐賀城旧二の丸跡に73年ぶりに再建されました。建てられた銅像は、台座も入れると約8.5メートル。全国から集まったたくさんの人の寄付金とたくさんの人々の力によって建てられました。
ひな祭り飾りの陳列してありました。地元小学生が製作した物!
佐賀城の鯱の門の北側に建てられた第10代佐賀藩主 鍋島直正公の銅像です。直正公は幕末期の佐賀藩の近代化に貢献した人物で、佐賀の七賢人の1人です。
写実的で落ち着いた雰囲気の銅像です。よく見ると眉が下がっているので、にやにやと笑う表情をしているようにも見えます。スケッチ会があれば、誰かが必ず描きそうな雰囲気の銅像でもあります。
第10代佐賀藩主に17歳で成られた鍋島 閑叟公の銅像は佐賀城鯱の門を潜る前に必ず目に入る大きな銅像です。脚元には直正公の功績の説明プレートが幾つかあります。
幕末といわれる時期の佐賀藩は、西洋の科学技術をいち早く取り入れ、日本で初めて鉄製大砲や実用蒸気船を製造するなど、全国から注目される存在であった。第10代佐賀藩主・鍋島直正(なべしま なおまさ)公は、今も歴史に名前を残す偉人の一人で、「佐賀の七賢人(しちけんじん)」の一人としても知られている。以前に建てられたのは大正2年(1913年)で、生誕100年を記念して、今の徴古館北東の位置に、大隈重信公たちが中心となって建てられた。大隈重信を建設委員長とし、佐賀常務委員には地元の政治家や実業家の名前が並び、銅像の鋳造を請け負った谷口清八の名前もあった。東京委員には、中牟田倉之助、久米邦武、納富介次郎、岡田三郎助など全国で活躍した佐賀出身者のほか、波多野敬直(官僚)や副島道正(副島種臣子息)、佐野常羽(佐野常民子息)等爵位受領者も多く選定されていた。この銅像は、太平洋戦争時(1944年)に、第二次世界大戦に伴う金属類回収令による供出で、武器の原料として国に渡してしまったが、それまでは佐賀のシンボルの一つとして、随分とみんなに愛されていたらしい。そんな直正公の銅像が、生誕200年を記念して、平成29年3月に、佐賀城旧二の丸跡の佐賀城鯱の門北側の広場に73年ぶりに再建された。建てられた銅像は、台座も入れると約8.5メートルもの大きさである。たくさんの人からの寄付金が全国から集まって、たくさんの人の力によって建てられてたのである。近くで見てみると、結構な大きさを感じるはずである。
名前 |
鍋島直正公銅像 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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鍋島直正公銅像佐賀城、鯱の門を出てすぐに見える銅像大正2年に佐賀城北御堀端に建築昭和19年に第二次世界大戦時の金属回収令により供出平成26年より銅像再建の寄付募集開始平成29年3月に現在の物が完成【どんな人】第10代佐賀藩藩主佐賀七賢人の一人(江戸時代末期から明治維新にかけて活躍、功績を残した人、他に大隈重信など)藩の財政改革をした人西洋技術の導入に積極的鉄製大砲製造の為の反射炉を築き洋式鉄製大砲の藩での製造することに成功藩校「弘道館」の拡充や洋学を学ぶ蘭学寮を設置天然痘のワクチンを国外から取り寄せる事を命じた明治4年に死去。