大聖寺藩関所跡へ、旧北国街道の魅力。
大坂一里塚跡(地方)の特徴
大坂一里塚跡は旧北国街道上に位置する歴史的なスポットです。
江戸時代初期に築かれた一里塚の跡地であることが魅力です。
近くには大聖寺藩関所跡もあり散策に最適です。
旧北国街道は有限会社大宗から坂道を降りここから東側の坂を降り県道141へ出たのち「大聖寺藩関所跡」へ向かう反対方向へ進むには先述の大宗工場内を通過する必要がある事務所に一言掛けておいた方が良いかも。
| 名前 |
大坂一里塚跡(地方) |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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大坂一里塚跡(おおさかいちりづかあと)は、旧北国街道(ほっこくかいどう)上に江戸時代初期に築かれた一里塚の跡地だ。今は塚そのものは消えてしまったが、この地に残る案内板や碑が、ここに街道の歴史が眠っていることを教えてくれる。一里塚というのは江戸幕府が慶長九年(1604年)に命じて全国の主要な街道に設けさせたもので、江戸の日本橋を起点として、ちょうど一里(約4キロ)ごとに街道の両側に築かれた土盛りの塚だ。塚の上にはエノキなどが植えられて旅人の目印とされ、休憩所の役目も兼ねていた。当時の旅というのは徒歩が中心だから、道中の目印は非常に重要だったわけだ。この大坂一里塚がある場所は、その名のとおり、かつて急坂があり、旅人にとっては厄介な難所だった。急坂を上りきったところにちょうど一里塚が置かれ、そこに旅人たちがひと息つける茶店が数軒並んでいたそうだ。これが有名な「大坂茶屋」だ。名物は団子だったという記録が残されている。古い史料によると、「団子屋が三軒並び、旅人の疲れを癒やしていた」という。当時の旅人のほとんどが、この坂道で汗を流したあと、茶屋で団子を頬張ってほっと一息ついていたんだろうな。また、この場所は藩政時代には加賀藩の支藩である大聖寺藩領に属していた。大聖寺藩は参勤交代や物流を管理する重要な位置にあったため、街道の管理はもちろん、関所などもしっかり整備していた。そのひとつが近くに残る三木村口留番所(みきむらくちどめばんしょ)だ。この番所は享和三年(1803年)に改称され、明治の初めまで現役で、旅人や物流の往来を厳しく監視していた。当時は交通の要所であるとともに、防衛上も重要な拠点だったわけだ。伝承によれば、大坂一里塚周辺は笠取山(かさとりやま)の麓を抜ける街道筋で、坂上には清水が湧き出ていたそうだ。地蔵が祀られた場所もあって、街道筋にはいくつかの茶屋があり、名物のそばを提供する店もあったという話も残っている。このような伝承は、当時の人々が旅の途中でどんな時間を過ごしていたのか、リアルに感じさせてくれるエピソードだ。ちなみに、この大坂一里塚の近くには他にも歴史の跡が散在している。その中でも特に知られているのが、敷地一里塚(しきじいちりづか)の涙地蔵(なみだじぞう)だ。これは藩政時代に罪人を処刑した跡に建てられた地蔵で、彼らの魂を慰めるために建立されたものだという。昭和54年(1979年)には場所を移転したものの、現在も地域の史跡として大切にされている。他にも越前国(現在の福井県)との境界にある加賀越前国境一里塚碑(かがえちぜんこっきょういちりづかひ)や、大坂一里塚の位置を示す石碑などが整備されていて、当時の街道の姿を垣間見ることができる。昔の北国街道は、多くの人が行き交う大動脈だった。江戸と各地をつなぐだけでなく、物流や文化の交流も担っていたこの街道上に置かれた一里塚や茶屋は、旅人たちにとって単なる休憩場所以上の意味を持っていた。土地の名物を味わい、人々が交流し、情報を交わした場所であったからだ。大坂一里塚跡は、そんな街道文化を現代に伝える貴重なスポットになっている。歴史の中に埋もれがちな場所だが、こうして記録や伝承が残されているおかげで、当時の活気を少しばかり感じることができるのはありがたい。北陸道を旅した多くの人々にとって、この一里塚や坂道での休息は、旅路を豊かに彩るひとときだっただろう。そんな旅人たちが残していった痕跡を、今でも感じられる場所だ。