世界一の大梵鐘がある英霊堂。
英霊堂の特徴
英霊堂は戦争や災害で亡くなった方々の御霊をお慰めしています。
明治36年に建立された大阪市指定有形文化財の美しい建物です。
大きな阿弥陀如来像が安置され、供養が行われている場所です。
熊野街道を歩いて立ち寄りました。
四天王寺の英霊堂は、戦没者や国家のために尽くした人々の英霊を慰めるために建立された堂宇です。堂内には戦争で亡くなった人々の霊を祀る祭壇や位牌が安置されており、参拝者は平和と追悼の意を表すことができます。また、年中行事として慰霊祭や法要が執り行われ、歴史と平和を学ぶ場ともなっています。四天王寺の荘厳な境内の中で、静かに手を合わせることで、戦争の悲惨さや命の尊さを改めて感じることができるスポットです。観光だけでなく、心を鎮める場所としても訪れる人が多い堂です。
【英霊堂】このお堂は当初、聖徳太子の偉業を奉讃する「領徳鐘機」として建立され、五年弱の歳月と八万円(現在の約八億円)を投じて鋳造された世界一の大梵鐘が釣られていた。その鐘は、当時の最高の技術によって鋳造されたが、その重量から鐘を描くや地響きが凄く、よって「鳴らずの鐘」と呼ばれた。大梵鐘は全長約八メートル、周囲約十六メートル、口径約五メートル、底の厚さ約O、五メートル、重量約六十四トンという大きさで、明治四十一年五月二十二日に落成初式が厳修された。昭和十七年、大梵鐘が第二次世界大戦にあたって物資として供出されることになり、同年十一月二十五日、納め式が行われた後、解体された。当初から堂内の天井には、龍が睨みつけているかのような迫力の絵「雲龍図」が描かれており、現在でも残っていて見る事ができる。明治四十年、湯川松堂の作。戦後、領徳鐘楼は梵鐘が供出された因縁から、当時の四天王寺貫主・田村徳海大僧正により大鐘楼の復旧営繕工事として鎮護国家を願う「平和祈念霊堂」の計画が進み、比叡山西塔黒谷青竜寺貫主の大角実田大僧正作の二文一尺(約六・四メートル)の大立像仏阿弥陀知来を当堂に譲り受け、昭和二十五年五月二十三日に落慶本尊入仏開眼法要が厳修された。その際、国のために我が身を捧げられた戦没英霊の御霊を祀るお堂「英霊堂」と命名され今日に至る。四天王寺諸堂の中で、歴史に翻弄され続けたお堂である。安置仏•木造阿弥陀如来立像(本尊)•左右に増長天(左)持国天、この二仏は江戸時代の頃の仏像と伝わる。
英雄殿安息著在戰爭中犧牲的人們以及在大地震和其他災難中失去寶貴生命的人們的靈魂,莊重的掉念場所。
四天王寺の英霊堂(えいれいどう)は、かつて「世界一の大梵鐘」を吊っていた巨大な鐘楼で、現在は戦没者や災害犠牲者を祀るお堂となっています。ーーーーー歴史と由来世界最大の鐘楼明治39年(1906年)に、聖徳太子の1300年御遠忌を記念して「頌徳鐘楼(しょうとくしょうろう)」として建立されました。当時は世界最大級の大梵鐘が吊られていましたが、第二次世界大戦中の金属供出によって鐘は失われました。英霊堂へ戦後、鐘楼としての役目を終えた建物は、鎮護国家と平和を願う「平和祈念霊堂」として改修されました。これに伴い、戦没者や大震災・災害犠牲者の御霊(英霊)を慰める「英霊堂」と改名されました。文化財大阪市指定有形文化財に指定されており、平面・高さともに国内最大級の規模を誇る鐘楼建築の遺構ですーーーーー特徴と安置仏御本尊阿弥陀如来立像(木造、高さ約6.4メートル)が安置されています。左右には持国天と増長天が配置されています。天井画天井には明治40年に湯川松堂によって描かれた迫力ある雲龍図が残っています。行事と参拝情報毎月21日の大師会(午後1時)や8月15日の終戦記念日(午後2時)に、世界平和と犠牲者供養のための法要が行われます。ーーーーー英霊堂の御本尊である阿弥陀如来立像は、その巨大さと、かつて世界最大の鐘楼だった建物に相応しい歴史的背景を持っています。阿弥陀如来立像の概要大きさ像高は一丈六尺(約4.8メートル)、光背や台座を含めた総高は約6.4メートルに及ぶ巨大な木造の仏像です。特徴両手で「来迎印(らいごういん)」を結び、今まさに人々を極楽浄土へ迎え入れようとするお姿をしています。由来と歴史鐘楼から霊堂へこの建物はもともと、巨大な梵鐘を吊るための「頌徳鐘楼」でした。しかし、第二次世界大戦中の金属供出によって鐘が失われたため、戦後に戦没者や災害犠牲者を祀る「英霊堂」へと改修されました。安置の経緯この改修の際、戦没者の英霊を慰め、平和を祈念するための御本尊として、この巨大な阿弥陀如来像が安置されました。作者について英霊堂の阿弥陀如来像の作者については、公式な記録や広く知られた特定の名仏師(快慶や定朝など)の名は明記されていないことが多いですが、以下の背景があります。近代の造像建物が英霊堂として整備されたのは戦後(昭和時代)のことであるため、この阿弥陀如来像もその時期に、平和への願いを込めて現代の職人や仏師によって制作・安置されたものと考えられます。様式鎌倉時代に流行した「安阿弥様(あんなみよう)」などの伝統的な技法を継承しつつ、大空間に映える堂々とした造形となっています。ーーーーー英霊堂の天井に描かれた雲龍図は、その圧倒的なスケールと歴史的背景から、四天王寺の見どころの一つとなっています。雲龍図の概要作者: 湯川松堂(ゆかわ しょうどう)制作時期: 明治40年(1907年)頃特徴巨大な鏡天井に、縦横無尽に舞う龍が墨色で描かれています。その眼光は鋭く、どこから見ても自分を睨んでいるように見える「八方睨み」の手法が取られていると言われます。歴史的背景と「森下仁丹」との関わりこの雲龍図は、当時の実業家であり森下仁丹の創業者である森下博の寄進によって描かれました。落款(サイン)の巨大さ図の左下には、寄進者である「森下博」の名と、絵師「湯川松堂」の落款が記されていますが、この落款だけで一辺約57.5cmという異例の大きさがあります。当時の意図建立当時は「頌徳鐘楼」として、世界一の大梵鐘が吊られていました。この大空間を飾るにふさわしい、迫力ある守護神として龍が描かれました。龍が描かれる意味一般的に寺院の天井に龍が描かれるのには、以下の意味があります火災除け龍は水を司る神とされ、木造建築を火災から守ると信じられています。仏法の守護龍は仏法を守る「八部衆」の一つであり、説法の場に「法の雨」を降らす象徴とされます。英霊堂は空襲の被害を免れた貴重な建物であり、この雲龍図も当時のままの姿で、今も天井から参拝者を見守り続けています。ーーーーー神社・修験道・勿論日本仏教の始まりの場。四天王寺には色々な要素がある。色んな所に『護国神社』と書かれていても不思議はない。長い歴史の中で戦乱はあるので、ハードウェアは全焼しても、ソフトウェアは積み重なって残っていく。財団法人大阪府遺族会と書かれた銘板があった。もとは鐘楼。明治39年に建設。聖徳太子の1300年御遠忌を記念して巨大な梵鐘を鋳造。これを吊るために柱間3間四方の破格に巨大な鐘楼が建設される。大規模な梵鐘、鐘楼(しょうろう)をつくることは中世以来の歴史があり、四天王寺の巨大な鐘楼もこの伝統が近代にまで受け継がれた数少ない遺構だ。敷地面積、高さともに、わが国最大級の規模。中之門から本坊にいたる主要参道に面して建ち、巨大な鐘楼は当時は地域のランドマークとなっていた。戦時中の陸軍による金属供出令により梵鐘は取り外され鐘楼としての役目を終えた。戦後、柱間に外壁が付加され、戦没者を慰霊する「英霊堂」として使用されている。「大阪府遺族会」の銘板がある。金属の供出により、鐘楼が英霊堂に変わるという数奇な歴史を持った建物には、人の世の不思議さが溢れているとは感じないでしょうか。
英霊堂は、戦争によってお亡くなりになられた方、大震災や災害において、尊い命を落とされた方の御霊をお慰めする。「平和の象徴」として建てられたお堂です。
Inside you'll find a beautiful Buda.
大阪市指定有形文化財明治36(1903)年建立、入母屋造瓦葺。境内の天井には、明治40年に湯川松堂により描かれた迫力ある雲龍図が今も残り、その眼光は息を飲む迫力である。本尊は木造阿弥陀如来像であり、左右に増長天、持国天が安置されている。
戦争精神への捧げ物の場所。勇気の殿堂の古い鐘は、戦争の必要性のために武器に溶けました。今日の大時計は逆説的に戦時中の英雄へのオマージュです。(原文)Place of offering to war spirit.英灵堂过去的大钟因于战争需求被溶为武器。今时的大钟却吊诡地成为悼念战时英灵的引声。
| 名前 |
英霊堂 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
06-6771-0066 |
| 営業時間 |
[土日月火水木金] 8:30~16:00 |
| HP | |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
〒543-0051 大阪府大阪市天王寺区四天王寺1丁目11−18 |
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2026/6/6四天王寺にしては歴史は浅く明治時代に[聖徳太子を讃える]為に作られました。戦後は[英霊の方々 等]を祀るお堂となったみたいです😌天井には龍🐉の絵が描かれていました😌