八女市上陽町の霊験あらたかな神社!
須賀神社の特徴
八女市上陽町の須賀神社は、小さな神社です。
駐車場やトイレがないため、訪問時には注意が必要です。
町中に位置するため、アクセスが便利なスポットです。
県道52を南下し、北陽町の北川内交差点の右側に神社は鎮座している。向拝の額束には素盞鳴神社と記されている。鳥居には文化年の文字が記されている。鳥居から石灯籠、坐する狛犬、瓦葺屋根の庇のある拝殿となる。向拝の梁の上の彫るものとその上の鬼瓦等に目を引かれる。古くから地域の方に引き継がれ鎮座している神社である。
駐車場がありません。なぜか、参拝中パキパキパキパキ音が鳴ります。
【月 日】2021年4月19日【駐車場】無し【トイレ】無し🔷八女市上陽町の須賀神社に参拝しました⛩️町中に有る小さな神社でした。🔷神社の駐車場の有りませんので近くの石橋公園の駐車場に停めました。
| 名前 |
須賀神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP | |
| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
北川内須賀神社は、八女ICの北東13.1kmほどの福岡県八女市上陽町北川内の県道52号線沿いに鎮座している神社です。宝永4年(1707年)西村又兵衛により大庄屋・小川忠右衛門の屋敷に創建されました。鳥居は、文化9年(1812年)の建立です。社殿は、明治37年(1904年)の再建です。毎年7月15日には「上陽祇園祭」が開催され、子供の健康・商売繁盛が祈願されます。当日は、神社を起点にちびっこ神輿が各地で力水を浴びながら上陽町商店街を練り歩きます。夕方には納涼花火大会も行われ、大輪の花火が夜空を美しく彩ります。境内には、「大伴部博麻の碑」が建立されています。大伴部博麻(おおともべ の はかま)は、斉明天皇7年(661年)新羅の攻撃によって滅亡した百済を再興すべく派遣された(白村江の戦い)軍の一員として渡航しますが、敗戦後に唐軍によって捕らえられて長安へ送られました。捕虜として数年を過ごすうち、唐の謀略を知り、朝廷に急を告げるために、博麻は自らが奴隷となって、その代価を、他の兵士の帰国費用に充てました。約30年の捕虜生活の後、持統天皇4年(690年)新羅使に連れられて日本に帰国しました。持統天皇はその愛国心を讃えて博麻を務大肆従七位下に任じ、「朕嘉厥尊朝愛国売己顕忠」という勅語を与えました。この勅語は「愛国」という単語の語源となり、天皇から一般個人に向けられた最初で最後の勅語です。大東亜戦争時の日本で博麻は愛国心の象徴的存在として崇められ、各地で喧伝されました。神社のある「北川内(きたかわうち)」という地名は、上妻郡(かみつまぐん)北川内村に由来します。明治22年(1889年)北川内村・久木原村・本分村が合併して、改めて北川内村が発足しました。昭和28年(1953年)北川内村が町制施行して北川内町となりました。昭和33年(1958年)北川内町・横山村が合併して上陽町が発足して、北川内町は消滅しました。平成18年(2006年)上陽町が八女市に編入しました。須賀神社(すがじんじゃ)は、牛頭天王(ゴズテンノウ)や素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祭神とする神社です。その数は全国で数百社にものぼると言われており、特に「天王様」として親しまれている地域が多くあります。「須賀」という名称の由来は、『古事記』や『日本書紀』の記述にあります。スサノオノミコトが八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した後、出雲の国で安住の地を見つけた際、「吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言ったことから、その地を「須賀」と名付け、宮を建てたという神話に基づいています。そのため、須賀神社は「すがすがしい場所」や「清らかな地」を象徴する社名として定着しました。全国の須賀神社のなかでも、特に有名なのは東京都新宿区四谷にある須賀神社です。ここは映画『君の名は。』の聖地としても知られ、多くの参拝者が訪れます。また、栃木県小山市の須賀神社は、徳川家康が関ヶ原の戦いを前に戦勝を祈願した「小山評定」のゆかりの地として歴史的に重要です。須賀神社は、厄除け、疫病退散、家内安全の御利益があるとされ、古くから地域の人々の信仰を集めてきました。各地の須賀神社で夏に行われる「祇園祭」は、疫病を祓うための神事として、今もなお活気ある伝統行事として受け継がれています。