歴史を感じる守口文禄堤。
文禄堤の特徴
文禄堤は豊臣秀吉の治水事業で整備された歴史的な場所です。
文禄3年に整備された堤防を散策し、風流な通りを楽しめます。
堤防の全長約700mで、守口市の歴史を深く感じることができます。
橋を渡る際に、周囲より小高い文禄堤上の街道をよく見ることができます。
なかなか、風流な通りです❢❢❢❢
文禄3年(1594)に豊臣秀吉は淀川の堤防左岸に大坂から京への重要な陸路と安全快適な堤道を整備しました。現在は京阪守口市駅周辺の東西約700メートルの唯一の現存する堤道(京、大坂道)です。江戸時代には東海道57次の守口宿として発展し高札場も設置して多くの人々の生活と賑わいがありました。(京から大坂の高麗橋の街道を京街道または大坂街道とも呼ばれていました。)
歴史的な場所(原文)Historical place
守口文禄堤は高低差5m前後・堤底辺部約50m・頂上部約30m・全長約700mの規模で残る。城北公園で明治の堤と合流したと考えられるが、その間は全て姿を消している。文禄年間に豊臣秀吉が建設した淀川左岸の堤防道。大阪府枚方市から大阪市長柄まで全長約27km続く堤防で、文禄3年(1594年)に豊臣秀吉が毛利輝元、小早川隆景、吉川広家に淀川の改修工事を命じて建設。慶長元年(1596年)に完成した。また堤防の上は大阪と京都を結ぶ最短路である京街道として安定した交通路となった。
豊臣秀吉が吉川広家・毛利輝元・小早川隆景の三家に治水と京街道の整備を命じた堤防。大坂と京都・伏見を最短で結ぶ最短陸路。京都からは大坂街道と呼ばれた。東海道57番目の宿場町守口宿が栄えたところ。
守口の文禄堤 歴史を感じせます。
守口市随一のタワマンが横にあります。
名前 |
文禄堤 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
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ブラタモリロケ地巡り秀吉の頃に堤防として整備され、後に居抜きで京街道として利用され宿場町(守口宿)として発展しました。堤防だった頃の名残りが“高低差”として今では街のアクセントになってます。