源氏物語ゆかりの雲林院。
雲林院の特徴
雲林院はかつて淳和天皇の別荘があった場所です。
源氏物語や伊勢物語の舞台として知られる歴史的なお寺です。
大徳寺の塔頭で、十一面千手観世音菩薩が安置されています。
大徳寺近くの老舗「大徳寺納豆一久」から横断歩道を渡ってまっすぐ進んで5分ほどで着きます。雲林院は「源氏物語」を始め、「枕草子」「伊勢物語」にもその名が登場する由緒ある場所ですが、あまり知られていない…穴場です。境内は広くはないですが、紫式部が雲林院周辺で生まれ育ったとされ、紫野という地名になったという話もあるので、紫式部が好きな方には魅力的な場所かもしれません。夏は花が綺麗です。
今の雲林院は、1324年大徳寺の塔頭になり応仁の乱で廃絶後1707年に寺名踏襲の上再建十一面千手観世音菩薩と大燈国師が安置されこじんまりしています。創世期の頃が知りたくて伺いました。今の雲林町を越える狩猟も行った広大な荒野に桓武天皇の皇子淳和天皇が風雅を楽しむ社交の場として造営した紫野院の頃です。のち桓武天皇の孫僧正遍昭が雲林院とし、この頃西行の歌の中に雲の林の寺の記述(満開の桜)が桜の名所であった事が伺えます。今は民家やマンションが建ち残されたものはありませんが、有栖川 御所橋 南大門 西門 堀川 等想像しながら散歩してました。過去に戻る事は不可能ですがゆっくりしました。
源氏物語の縁のお寺だそうです。源氏物語の藤壺の縁です。今、ちゅう源氏の源氏物語スタンプラリーが開催されていて、そのスタンプがいただけるお寺です。静かで可愛いお寺です。
大徳寺への散歩の通り道、今は雲林院はその一隅だが、平安時代に天皇の隠居所、その敷地内に大徳寺が創建されたそうです。
源氏物語に所縁のお寺、観音堂をお詣りできます。
紫式部の「源氏物語」賢木にこの寺名がでてくる。源氏が藤壺との逢瀬が巧く行かず心沈んでいる時、秋の野に誘われて紫野雲林院に詣でた、とある。ここは、亡き母桐壺の御息所の兄君の律師が籠っているお寺であると物語では書かれている。源氏はここに二、三日逗留している。その状況を事細かに描写している事から考えると紫式部もこの寺に逗留した事があるのだろうと思うのも面白い。また、紫式部はこの辺りで生まれ育ったと言われている。そして、紫式部のお墓はここから東の近くにある。
もとは淳和天皇の別荘であった紫野院を、のちに僧正遍照が寺院として改め、雲林院とした。当時は広大な敷地を誇り、桜や紅葉の名所として多くの文人が通ったらしい。その後、鎌倉時代から衰退をたどり、大徳寺の塔頭となったものの、応仁の乱で灰燼に帰してしまった。江戸時代に復興されたが、往昔の姿を偲ぶよすがもない。<雲林院と古典文学について>【僧正遍照】雲林院は僧正遍照が寺院として興した。雲林院はまさに僧正遍照ゆかりの地と言えよう。「天つ風雲のかよひぢ吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ」(僧正遍昭/百人一首)・・・境内に歌碑あり【源氏物語】「賢木」の巻で登場。藤壺の中宮から冷たくされた源氏が、へそを曲げて雲林院に籠る。そこで天台宗の経典60巻を読んで、わからないところを僧たちに聞いたりしながら過ごしている。なお、紫式部の生地は紫野との説もある。紫野から紫式部の名が付いたという。紫式部は普段から雲林院には通っていたようだ。【西行】「これやきく雲の林の寺ならん 花を尋ねるこころやすめん」(西行)『雲の林』とは桜が満開になっている様子を表わしたもの。【古今和歌集】「紫の雲の林を見わたせば法にあふちの花咲けにけり」(古今和歌集)【伊勢物語】伊勢物語と雲林院の関係は、謡曲「雲林院」による。摂津芦屋の里に住む公光という若者は伊勢物語の大ファン。夢の中で在原業平と出会ったことから、京都の雲林院にやってくる。夜になり業平の霊が現れて二条后との逃避行の逸話などを話し聞かせるというストーリー。伊勢物語フリークとしては外せない。
『枕草子 四一段』賀茂祭への奉仕を終え紫野斎院へ帰る斎王の「還り立ち」の行列を「雲林院」付近に牛車を止め見物している。→賀茂社の斎王の御所である斎院が雲林院の近くにあった。(地名で読む京の町/森谷尅久著より)
雲林院(うんりんいん)は、京都市北区紫野にある臨済宗の寺院。臨済宗大徳寺派大本山大徳寺の塔頭である。かつて天台宗の大寺院として知られた、平安時代の史跡でもある。なまって「うじい」とも呼ばれた。
名前 |
雲林院 |
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ジャンル |
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電話番号 |
075-431-1561 |
住所 |
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評価 |
4.1 |
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広大な荒地に「離宮紫野」が出来て、その後に官寺「雲林院」が出来て、「源氏物語」「伊勢物語」等にも登場。鎌倉時代に敷地内に「大徳寺」が出来た。と案内板に在りました。案内板にさり気なく西行さんの歌が。