明治維新の決定的現場、歴史の息吹!
小御所の特徴
小御所は明治維新の歴史的現場として特別な場所です。
武家との対面に用いられた重要な儀式の場です。
山内容堂と岩倉具視の激しいやり取りが交わされた場所です。
京都御所のなかにある、建物で諸大名の引見などに使われた小御所です。有名な話しとして、小御所会議(こごしょかいぎ)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年12月9日(1868年1月3日)に京都御所の小御所にて行われた国政会議です。同日に発せられた王政復古の大号令において新たに設置された三職(総裁・議定〈ぎじょう〉・参与)が行った最初の会議です。大政奉還を行った徳川慶喜の官位(内大臣)辞退および徳川宗家領の削封(辞官納地)が決定され、倒幕派の計画通りに決議されたので王政復古の大号令と併せて「王政復古クーデター」と呼ばれることもあります。
明治維新の決定的現場。
武家との対面に使われていました。
儀式を行う場所だけでなく、武家との対面にも用いられた。寝殿造りと書院図栗の融合したような様式の建物。1867年の王政復古の大号令が発布された夜に行われた小御所会議の舞台である。ただし、建物は昭和期に復元されたもの。
お内裏様にお雛様と右大臣、左大臣でしょうか?
ε-(´∀`*)ホッ
1868年1月3日、明治天皇(16才)参席のもとで行われた会議は、時代の流れを読めない山内容堂の発言の為に、歴史は逆行するところだった。一瞬早く政権を返還し、自らの安泰を図ろうとする姑息な慶喜。不参席の慶喜は、この会議の結果を受けて、徳川が新政府の潜在的主導権を握れると錯誤、また自ら外交権があると思う始末だ。ここに至って薩長の堪忍袋の緒は切れた。朝廷より徳川追討令(密勅)が出されたのだ。偽勅の可能性もあるが、大きな歴史のうねりの中でそれは何の意味も持たない。逆に言えば、この日の中途半端な会議が、薩長の大いなる決意を引き出したことになる。同年1月27日、鳥羽伏見の戦いは始まった。それは明治日本の始まりの第一日目だった。日本の運命を決定した小御所会議。その議論沸騰した部屋の目の前に自分がいる。実に不思議な感じだ。いま小御所は観光客のざわめきの前でただ静まり返っているだけだ。
名前 |
小御所 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://sankan.kunaicho.go.jp/multilingual/kyoto/place11.html |
評価 |
4.2 |
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ここが山内容堂と岩倉具視が舌鋒を尽くしてやり合った場所かと感慨に耽っていたが、実はその後焼けてしまい今の建物は再建したものと伺いガックリ。