島津歴代墓所の神秘を感じて。
玉龍山福昌寺跡の特徴
玉龍高校の裏に位置する、島津家歴代の墓所です。
静寂な雰囲気の中に、歴史の重みを感じる場所です。
苔に覆われた美しい墓群が、訪れる人を魅了します。
玉龍高校の裏側にあります。車で行くと少しわかりにくいかもしれません。静かな場所ですが、掃除が行き届いていてゆっくりと散策を楽しめました。
玉龍高校の裏手にあります。静かで落ち着いた雰囲気です。鳥居が倒壊の危険があるとのことで、立入禁止の区間がありました。鹿児島中央駅から南国交通のバスに乗り、玉龍高校前バス停で降りました。
タクシードライバーさんに案内してもらいました。隣に高校があり生徒達の声が時々聞こえますがそれ意外な自然の音だけのとても静かな良い場所です。お寺の跡が島津家の御墓になっていて墓石がたくさんあります。管理の人も居ないのゴミがあったりしないのも鹿児島の人が大切にしているのだと思います。観光地化されずにひっそりと遺る史蹟はとても良い感じです。
島津重豪延享2年11月7日(1745年11月29日)天保4年1月15日(1833年3月6日)浪費家政策実行による莫大な出費は、最後には大名貸しから資金調達を拒絶され、遂に市井の高利貸しからも借金する(500万両、現代の価値で約5000億円)羽目となり、後世の史料では「薩摩藩が天文学的な借金を抱える原因を作った殿様」として家臣に糾弾されている。曾孫の斉彬の利発さを愛し、幼少から暫くの間一緒に暮らし、入浴も一緒にしたほど可愛がった。お由羅の方由羅(ゆら、寛政7年(1795年)- 慶応2年10月28日(1866年12月4日)は、薩摩藩主・島津斉興の側室である。文政7年(1824年)に斉興の正室・弥姫が死去すると、由羅は、当時弥姫との子(島津斉彬、池田斉敏)以外で斉興の生き残った息子を生んだ唯一の生母であったこともあり「御国御前」と呼ばれて正室同様の待遇を受けた。その後、息子・久光の藩主就任を謀り、長兄・斉彬の廃嫡を目した事からお由羅騒動と呼ばれるお家騒動(高崎崩れともいう)を巻き起こしたとされるが、騒動の鎮圧後に罰を受けることはなかった。なお、孫である忠義の七女俔子は久邇宮邦彦王に嫁し、その長女良子女王は、大正天皇の第一皇子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)の妃となった。
♦️日本三大僧録所といわれた巨大寺院 島津家の菩提寺寺中は常に1500余りの人の修行僧があったとされ、静かで広くひっそりしていた❗
島津歴代の墓所。6代から28代まで歴代のお墓があります。貴久、義久、義弘、歳久、家久、重豪、斉興、斉彬、久光など、ビッグネームがずらりとおられます。竹姫やお由羅の方など歴代の奥方の墓もあります。由緒墓地には調所広郷、阿多盛淳、横山安武らのお墓も。裏山には歴代住職の墓、キリシタン墓地もあります。全てお参りするのに、2時間ほどかかりました。お寺は廃仏毀釈で破壊され、跡地は高校になっています。南洲墓地に比べて訪れる人は少なく、部活で走り回っている高校生のほうが多いほど。初代から5代は本立寺跡に、29代忠義は常安峯墓地におります。
島津義久公のお名前を自分の息子に頂戴したく、お参りに来ました。お墓にいくための道が細過ぎて本当にこの道なのか?と不安になりました。何とかたどりつけて本当に嬉しかったです。そして、息子に「義久」と命名させていただきました。本当にありがとうございました。
福昌寺跡(池之上町 玉龍高校裏)は、島津家6代師久(もろひさ)〜28代・斉彬(なりあきら)までのお墓があります。亀を土台にしたものも島津家の墓の特徴でもあります。
島津家の墓で、何か神秘的でしたね。斉彬様の墓も有ります。後、横山安武様の墓も有りますので、興味の有る方は、お薦めです。
名前 |
玉龍山福昌寺跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://www.city.kagoshima.lg.jp/kyoiku/kanri/bunkazai/shisekimeguri.html |
評価 |
4.5 |
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島津義弘公のお墓を参りに来ました。場所が広くて、趣深く、色々と考えさせられるものがありました。関ヶ原の戦いに参戦した義弘公がここに眠っているのかと考えただけで、感慨深い‥歴史好きの息子に感謝です✨