玉名市高瀬の金刀比羅神社で心を癒す。
高瀬 金刀比羅神社の特徴
河川敷駐車場が完備されていて、アクセスも便利です。
公園内の公衆トイレが整備されていて、参拝しやすい環境です。
地元の人々に大切にされている、温かみのある神社です。
【月 日】2022年5月26日【駐車場】有り(河川敷駐車場)【トイレ】有り(公園内公衆トイレ)🔷玉名市秋丸の金刀比羅神社に参拝しました。高瀬裏川緑地公園の下流域の所に有りました。小さは神社ですが綺麗にされていて良い神社でした。
感じの良い所。
高瀬金刀比羅神社は、JR玉名駅の東1.5kmほどの玉名市高瀬にある高瀬裏川水際緑地の最南端に鎮座している神社です。江戸時代、海上交通の守り神として全国に広まった金毘羅信仰に基づき、高瀬の海運業者や商人たちによって創建されました。神社は、高瀬裏川水際緑地の園内に鎮座していて、江戸時代の面影を残す石垣や船着き場跡があり、初夏には花菖蒲が咲き誇ることで有名です。入口には鳥居の跡のような石柱があり、狭い境内には手水舎と境内社の小さな祠があります。春には美しい桜が咲き誇るため、地域住民の憩いの場としても親しまれています。神社のある「高瀬(たかせ)」は、中世の南北朝時代には、九州を舞台に活躍した武将・菊池氏の拠点「高瀬津」として、唐船も出入りする海外貿易の港が形成されました。近世に入り加藤清正が治水・開港を進めると、江戸時代には熊本藩最大の米の集積地へと発展します。流域から集まった「肥後米」は年間約20万俵に及び、ここから大阪へ船出しされて全国の米相場の基準となりました。藩の重要な拠点「肥後五ヵ町」の一つに数えられ、酢屋や味噌屋などの商店が立ち並ぶ活気ある町並みが築かれました。明治10年(1877年)の西南戦争では薩摩軍と官軍による「高瀬の戦い」の舞台となり、多くの建物が焼失する悲劇に見舞われました。しかし、現在でも川岸に米俵を転がして運んだ石敷きの「俵転がし」や、嘉永元年に架けられた「高瀬眼鏡橋」などの貴重な水運遺構が残されています。これらは「熊本藩高瀬米蔵跡」として国の史跡に指定され、往時の栄華を現代に伝えています。神社のある「高瀬(たかせ)」という地名は、かつてあった肥後熊本藩の玉名郡(たまなぐん)高瀬町に由来します。明治22年(1889年)高瀬町・秋丸村・永徳寺村、・繁根木村が合併して、改めて高瀬町が発足しました。昭和17年(1942年)高瀬町・彌富村が合併して、玉名町が発足しました。昭和29年(1954年)玉名町・築山村・滑石村・大浜町・豊水村・八嘉村・梅林村・小田村・玉名村・石貫村・月瀬村・伊倉町が合併して、玉名市が発足しました。金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)の総本社は四国香川県の琴平町にあります。昔から「讃岐のこんぴらさん」として全国的にその名が親しまれ、江戸地代には伊勢参りと並び「金毘羅参り」が庶民信仰として大いに広まりました。金刀比羅宮の社伝が建つ象頭山(琴平山)は本来「日和山」と言って、船を出すかどうかを判断する際に日和を見る(天気を予測する)ために利用されている山で、古くから瀬戸内海を航行する船乗り達の目印でした。海に生きる人々は山に神の存在を感じ、海上安全を願って信仰してきました。今でも新しい船が作られると、船主は先導や船員をともなって金毘羅さんに参拝し、船の絵馬を奉納するのが習わしになっています。各地の日和山の神霊の中でも金毘羅大権現は、皇室に崇敬されることによって群を抜く霊威を獲得し、金毘羅信仰が全国的に広がって行きました。
| 名前 |
高瀬 金刀比羅神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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