九谷焼発祥の地、古九谷の里。
「古九谷の里」の碑の特徴
古九谷の里は九谷焼の発祥地であり、歴史を感じることができる。
江戸時代初期の伝統が息づく、貴重な磁器の焼成の執念を伝える場所。
九州ダム工事を背景に、移住した九谷集落を偲ぶ重要な記念碑が存在する。
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九谷ダム工事に伴い、移住した九谷集落を偲ぶ記念碑です。
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| 名前 |
「古九谷の里」の碑 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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加賀市山中温泉九谷町にある「古九谷の里」は、江戸時代初期に磁器の焼成が始まったとされる九谷焼発祥の地であり、現在は「九谷磁器窯跡」として国の史跡に指定されている。現地には連房式登窯の窯跡や色絵磁器の出土遺構が保存され、往時の工房跡を伝える複数の石碑が並ぶ。九谷焼の創始は、加賀藩支藩である大聖寺藩の初代藩主・前田利治が、山中奥地の九谷村で発見された良質な陶石をもとに、藩士・後藤才次郎を有田に派遣し磁器製法を学ばせたことに始まる。才次郎は帰藩後、九谷村で窯を築き、これが後に「古九谷」と呼ばれる磁器の生産の起点となった。現地に築かれた1号窯は、全長33.4メートル、13房を持つ大型の登窯で、構造的には肥前有田の初期窯と共通点が多い。この窯からは「明暦弐歳 九谷 八月」と記された染付の色見片が出土しており、江戸時代前期の稼働を示す確実な物証とされる。窯跡の南西斜面には、色絵磁器の焼成に用いられた赤鉄鉱原石の出土地も含まれており、色絵技法の存在も早くから備わっていたことがうかがえる。ただし当時の主な製品は白磁や青磁であり、色絵は比較的少数にとどまっていた。後に伝世された古九谷様式の色絵磁器との技術的連関は今も研究課題となっている。この窯は元禄年間までに突如として操業を終え、以後約100年にわたって九谷焼の生産は途絶えた。その後、文化年間に入ると加賀藩は京都から青木木米を招いて金沢春日山窯を設けるが短命に終わり、再び磁器生産の中心は民間に移った。文政6年(1823年)、豪商・吉田屋伝右衛門が私財を投じて古窯の北側に窯を築き、古九谷の再興に挑んだ。これが吉田屋窯である。吉田屋窯では青手と呼ばれる緑を基調とした色彩が特色の磁器が焼かれたが、山奥での操業に難があり、山代温泉へと移転される。後に番頭だった宮本宇右衛門がこの事業を引き継ぎ、赤絵細描と金彩を特徴とする宮本窯を確立した。明治期に入ると、九谷焼は輸出工芸として注目される。九谷庄三の金襴手様式は海外の博覧会で高く評価され、九谷焼は美術磁器としての地位を確立していく。このように古九谷に始まる九谷焼の流れは、一時中断を経て、再興九谷、そして輸出九谷へと続いていった。こうした歴史の積み重ねを今に伝えるのが、「古九谷の里」として整備された九谷磁器窯跡である。1号窯、2号窯に加え、色絵専用の窯や工房跡、吉田屋窯などが確認されており、1979年に国指定史跡となった後も、2005年、2006年と追加指定が行われ保存範囲が拡大されている。窯跡は山の急斜面に階段状に築かれ、火床・砂床・分焔柱などが確認されているほか、周辺からは窯道具や色絵具原料などが多量に出土している。なお、当地には蓮如上人の四男・蓮誓が文明18年(1486年)に開いたと伝わる「九谷坊」があり、宗教的中心地でもあったとされる。このような背景から、山中温泉から谷を遡ったこの地域には古くから人が集まり、木地師や鍛冶といった工人も暮らしていたという。現地では、谷間の小川を利用した流水式の便所遺構なども確認されており、戦国期の高度な生活文化を示す例としても注目されている。平成17年にはこの地に「古九谷の里」と題した碑文が建てられ、後藤才次郎の功績や九谷焼の創始を後世に伝えている。また、現地の史跡は「九谷焼窯跡展示館」としても整備され、山代に移転後の吉田屋窯跡も含めて一般に公開されている。展示館では、明治から昭和にかけて使われた実物の登窯や、当時の工房建物も保存されており、九谷焼の技術と歴史の重層性を体感できる。九谷焼の魅力は、その色彩や図柄にとどまらず、この地で育まれた技術の伝承や人々の努力によって支えられてきた点にある。「古九谷の里」は、そうした文化の記憶を静かに物語る場であり、磁器生産という美術工芸の営みが山深い谷でどのように始まり、どのように継がれてきたのかを、今に伝えるかけがえのない史跡である。