歴史感じる高久館のさきへ。
高久城(高久館)跡の特徴
永仁元年に築城された歴史的な高久城跡です。
佐竹氏による再築の痕跡が残る貴重な場所です。
ふるさとの歴史を感じながらの訪問が楽しめます。
2024/7/13主郭は案内板の上の墓地。この墓地と畑との間にはかなり深い堀切がある。ただしとんでもない薮でとても入る気になれない。また、この畑の端には明らかに堀跡と思われる窪みがある。
高久館のある台地は結構先端近くが入り組んでいるので、この場所を探すのがわりと難しいかもしれない。城址を縦に2つに分けるようにして県道246号線が通っているのであるが、道が新しくなっている部分もあり、地図と実際とはちょっと異なっている。一番分かりやすいのは台地の東南下から上がっていく道を見つける事かもしれない。そうすると1郭の脇に出ることができるであろう。もしくは北側の「寄居」というバス停の辺りから南下してくるのであるが、この道は現在ではメインの通りではなくなってしまい、あまり使用されていない道のようである。しかしここを南下すると図の大手の辺りに出るので、道のすぐ脇に二重堀構造を見ることができる。 城は台地先端部を中心として堀切によって連郭式に数郭を配置したものである。台地先端に近い1が主郭であったろう。ここは現在は墓地となっている。その南側の最先端部にも4の部分があるが、ここはヤブなのできちんと探索していないが、平坦地があるようであり、物見か何かがあった所であろうか。 1郭と2郭との間には深さ5m、幅7mほどの堀切が現存している。この堀切は東側の先端近くで北東部分にきゅっと曲がっているのだが、注目すべきなのはその東側下の部分である。1郭の東側下の城塁は全体がえぐれるようにして削られている。自然崩落した部分もあるのであろうが、もともと厳しい切岸が存在していたのであろう。この部分、深さは10mほどある。そして下の5の腰曲輪の東側にはさらに土塁のようなものがある。この土塁はかなり複雑な形状をしており、土塁といっていいのかどうかちょっと分からないのだが、これによって挟まれた5の部分は自然と横堀形状を成している。つまり1郭の東側下はもともと深い横堀であった可能性があるといえるのである。 2郭と3郭との間の切り通しの道路が堀切の跡であったのかどうか、現地で確認するのを忘れてしまったのだが、全体の構造から見て、ここも堀切であったと見てもよさそうである。つまり1郭の北側には2郭、3郭が横に配列されていたということになる。 2郭、3郭を取り囲んでいた、その外側の空堀は、現在では畑地化や道路拡張のためにかなり埋められてしまってはいるが、2郭北側の堀は、その北側の「館」部分の土手がそのまま残っているので、位置ははっきりと確認できる。この堀は東側の部分で南側にクランクしていた。 3郭北側の堀は道路を拡張するためにすっかり埋められてしまった。しかし現在の道路に沿って堀が存在していたという話は現地で確認することができた。だいたい道路がそのまま堀のラインと重なっているらしい。3郭の西側から南側にかけては城塁らしい土手がよく残っている。西側の土手下の畑は堀の跡のように見えたので、現地の方に確認した所、やはりもともとは堀が存在していたということである。この堀は3郭の南側では腰曲輪となっているが、この腰曲輪部分の一部には外側に土塁があって、横堀らしい形状を留めていることから、これも本来は横堀ではなかったかと思われる。3郭東南端の天王社のある部分は櫓台、あるいは物見台のようなものではなかったろうか。この3郭の東側の一部に土塁が残っている部分があるのだが、これはもともとあったものではなく、道路拡張工事を行った際に余った土を寄せただけのものであるという。つまりこれは偽土塁である。しかし、最初見たときには残存土塁かと。思ってしまった。こういうことは、やはり聞いてみないと分からないものだ。 城の中心部分はこんな感じであるが、その北側には外郭部分が存在していた。外郭部分の遺構の大半はすでに消滅してしまっているが、図の「大手」とある辺りには二重堀がしっかりと残っている。この部分、道路の東側は二重堀となっているが、西側は幅の広い箱堀となっている。西側の部分はひょっとすると水堀であったのかもしれない。西側の堀の両側には土塁も残っている。大手北側の道路が土塁の所で直角に折れているのも、登城道であったことの名残なのだろう。この辺りの遺構はとても重厚なもので、この城が戦国期にかなり手を入れられたものであろうことがよく分かる。この外郭部分を中心とした地名が「館」なので、あるいは元もとの高久氏の館は、台地先端部ではなく、この辺りにあったのかもしれない。そのさらに北側に「寄居」という地名があるのも、その想像を補強してくれそうな気がする。外郭ラインは、西側の部分がどうなっていたのか分からないが、道に沿って3郭と接していたのであろうか。 このように高久館は、「館」というよりも、かなり広大な「城」というのにふさわしい規模のものである。戦国期、この地域の支配拠点とするために佐竹氏のてこ入れによって拡張整備が施されたものではないかと思われる。
ふるさとの歴史を感じる。
| 名前 |
高久城(高久館)跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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案内板によると永仁元年(1293)に築城され、その後佐竹氏が再築したとの事。ちょっと散策してみましたが、本丸(多分💦)は墓地になっていて周りは田畑に変わっているので、遺構はあまり残っていませんでした。