徳川秀忠の本陣跡、御勝山古墳。
御勝山古墳の特徴
勝山通り沿いに位置する、標高14mの小高い丘です。
御勝山古墳は、徳川秀忠が戦勝宴を催した場所として有名です。
古墳時代中期に築造された前方後円墳で、墳長は約120mです。
標高14mの「山」。古墳の一部だそうで、かつては前方後円墳だったとか。大阪城を攻める時に徳川勢が「前方」部分を著しく破壊したとある。後円部分が残って「山」となっているのだが、柵で囲われ、許可がないと入れない。南側の歩道橋の上に上がると「山頂」とほぼ同じ高さになる。
岡山砦(勝山)でポインティングしたはずが、承認されたのに反映されず。大坂夏の陣で徳川秀忠が陣をひいた場所になります。岡山と言われたところが、先勝により、御勝山になったとも。とにかく、前方後円墳が勝山通により真っ二つに分断されています。ここまでしっかり残っているのに、分断されているところも珍しいのではないかと。歩道橋がシュールです。
生野区役所近くにあり、5世紀ごろの築造とされる古墳。現在の形からは円墳のように見えますが、もともとは前方後円墳だったとのこと。大坂の陣で徳川方の本陣が置かれたために一部破壊されてしまったようです。現在は古墳の中央を勝山通が通っています。また古墳の両側は小さな公園になっていて、遊具などもおかれています。古墳の墳丘に立ち入ることはできませんが、歩道橋の上から見ると石碑が立てられているのが分かります。
御勝山古墳は、生野区勝山北と勝山南にわたって存在していた、前方後円墳である。前長120m前後の長さの墳丘であり、南北に長い形である。この辺りの古墳は、百舌鳥・古市古墳群の殆どの古墳は南北方向に少し角度を付けている。東西長いものは少ないが存在している。古くは岡山と呼ばれることが多かった。猪飼野の岡と呼ばれることもあり、「摂津名所図会」ではそうなっている。近代になり御勝山南公園側の前方部は削られて平らになり、御勝山北公園側の後円部のみが残っている。削られた原因の一つは、勝山通の建設である。大坂冬の陣で徳川側がここに陣地を張って勝利したことから、御勝山と呼ばれ始めたという説がある。江戸時代に入れば、大坂は天領か譜代大名の領地であったので、それほど豊臣側を表立って応援することは出来なかったのである。明治に入り、大阪府立農学校がこの辺りに置かれた。のちの府立大学農学部であり、現大阪公立大である。浪花百景の「第八十景 御勝山」は、この古墳を描いている。
大阪5低山の1つで標高は14m。古墳中期に築造されたとされているそうで、被葬者は大小橋命という人らしい。古墳時代の豪族だとか。
大阪5低山の1つで標高は14m。古墳中期に築造されたとされているそうで、被葬者は大小橋命という人らしい。古墳時代の豪族だとか。
勝山通り沿いにある小高い丘に見えるのが御勝山古墳。柵に囲われていて登れませんが、こんもりとした様は見られます。
2023.4.25 初訪問大阪市内に現存する数少ない古墳の一つ。柵に囲まれて中には入れませんが、お花🌸が見事に綺麗に咲き誇っていましたので、調べて見ました。ニセアカシア(和名ハリエンジュ・針槐)。名前の通りアカシアではありません。明治に渡来。北海道では、「アカシア」と呼び親しまれているそうですが、誤称です、と。古いところでは、西田佐知子のヒット曲「アカシアの雨がやむとき」のアカシアもこの木。白い蝶形の花が、藤の花のように下垂しています。甘い香りが、古墳中に漂っています。今が見頃です、5〜6月。葉も、楕円形の葉が一本の茎に左右に綺麗に並ぶ特徴があり、かわゆい。葉柄の茎元に棘がある事から、針槐と。落葉広葉樹の高木(20〜25m)。古墳に付随する御勝山公園、御勝山南公園には、トイレが有りません。西に直ぐ生野区役所が有ります。こちらのご利用を。6階で、9時からモーニング、お昼も頂けます。1階左奥に「御勝山古墳と勝山遺跡」の展示コーナーがあります。古代大阪を形造っていたのは上町台地(狭義)ですが、その南西側部分を我孫子台地と呼ばれています。その先端部分が、ここ御勝山古墳、勝山遺跡にあたります。台地は南へ広がり、JR阪和線東側、長居公園から我孫子山之内、大和川(江戸時代開削付替)を超え、堺三国ヶ丘へと続きます。
かの大坂の陣で徳川方の本陣になったために古墳としての原型はなくなって大いに破壊されたんやとまぁ当時は古墳ていうことはわかってなかったんやろけど…この古墳に葬られた人は災難なこっちゃな。
| 名前 |
御勝山古墳 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
06-6208-9166 |
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.2 |
| 住所 |
|
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所在地 大阪府大阪市生野区勝山北3丁目形式 前方後円墳(現在は後円部のみ現存)規模 全長約110〜120m(推定)築造時期 古墳時代中期(5世紀前半)指定 大阪府指定史跡歴史と見どころ徳川秀忠の陣所(名前の由来)江戸時代の「大坂の陣」の際、徳川方(徳川秀忠)がここに本陣を置きました。戦勝を記念して、それまでの「岡山(丸山)」という呼び名から**「御勝山」**と称されるようになったと言われています。墳丘の変貌現在は住宅街の中の「御勝山公園」として整備されていますが、もともとは前方後円墳でした。徳川方の陣所として利用された際に地形が改変され、さらにその後の都市化(道路の開通や公園化)により、現在は後円部にあたる小高い丘のみが残っています。考古学的価値公園内にはかつての墳丘の面影が残っており、過去の調査では埴輪(はにわ)の破片なども出土しています。