平清盛ゆかりの伝清盛塚。
伝清盛塚の特徴
音戸の瀬戸を切り開いた平清盛の歴史的な逸話があります。
元暦元年に建立された、県史跡伝清盛塚が存在します。
海峡を見渡せる場所にあり、歴史の名所として訪問者を魅了します。
清盛塚を臨む桟橋は壊れていて渡れません。道端から拝み見るのみですが、雰囲気があります。
広島県呉市の音戸瀬戸にある県史跡「伝清盛塚」の参拝橋(音戸町鰯浜1丁目)に貨物船が衝突し、参拝橋が大破してから3カ月が過ぎたが、再建の見通しが全く立っていない。
2020年3月21日訪問呉市の軍港からタクシーで渡し船の辺りに案内して頂いて後は歩いて。1184年平清盛公が難所である音戸の瀬戸を切り開いた功徳を称えて建立されたと説明板等伝わりますが、地質学上繋がってはいなかった、また宝篋印塔は室町時代のものらしいですが清盛公の何らかの影響あったことは間違いなく音戸大橋からも清盛塚の全体像が望めます。少し登りが厳しいですが近くに公園が有り清盛関連の像や碑も有ります。またこの時別の運転手さんが丁度広島カープが佐々岡監督変わりオープン戦から応援されていて熱心だったんですが3年間Aクラスなく昨日退任。
音戸大橋を渡った直ぐに、史跡「伝清盛塚」がありました🤔。音戸の瀬戸を切り開いた『平 清盛』公の塚だそうです。音戸大橋を潜って行く船🚢を眺めて偉大な工事だったんだなあと思いました。🤗第二音戸大橋とのコラボ景色もgoodです。👍
立て看板によると「音戸の瀬戸を切り開いたと言われる平清盛が、当時大工事を行う際に献じたと言われる人柱の代わりに、一時一石の経石を海底に沈め、難工事を完成させたと言われています。清盛塚は1184年に建設されたと伝えられており、周囲49mの石垣に囲まれた塚の中央には、清盛公の功徳をたたえた高さ2mほどの宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。境内の黒松は1719年に一度枯死して植え替えられたとされています。1999年に再び枯れてしまいましたが新しい幼木が育って、現在まで「清盛松」として親しまれています」とのこと海に囲まれた塚です手前の桟橋から見ます表の道が交通量が休みの日は意外と多いので横断歩道を渡るときは注意しましょ。
目の前の狭い海峡をまあまあ大きな船が通ります。通る船舶も多く、必要な海峡だと感じました。清盛の時代にも大変便利な重要な海峡だったのですね。駐車場あり、トイレあり。
海に突き出た桟橋的な場所で、音戸の瀬戸の ここは川か? って思うほどの潮流の速さが間近で見れてとても良いスポットだと思います。
【伝清盛塚】《県史跡》音戸の瀬戸を切り開いたといわれる平清盛公の公徳を称え、その供養の為、元暦元年(1184)に建立されました。天正十年(1582)に小早川隆景公により改修されたとの記録も残っています。「藝藩通志」では次のように”塔婆“と言っている。『隠渡迫門「瀬戸島、警固屋村の間にあり、当国第一の急灘なり」於牟登迫門 平清盛塔附』[瀬戸島と警固屋村の間にあり、相傳ふ、平相国のきりぬかれしと、相国厳島神を宗信して、しばしば往来す、故に此迫門を鑿て、船路の便とすといふ、さもあるべきか、迫門の口に石をたたみて、上に石塔を建つ、世に相国の塚といふ、(略;塔の形状)故に塔婆を建て、其恩徳を報ず、因て御塔の迫門と號す、今隠渡と書くは誤りなり、又隠れたる門と云義ともいえり、按に相国開鑿の事、国史に見えず。(出典;音戸瀬戸開削の謎)
歴史の名所地。こんな所にと言う場所にあります。釣りに於いては、大物狙いの釣人が居ます。駐車場なし。
名前 |
伝清盛塚 |
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ジャンル |
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電話番号 |
082-513-5021 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.8 |
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音戸の瀬戸を切り開いた平清盛が、人柱の代わりに建てたもの。三国志の饅頭の話に似ている。現在は、桟橋が壊れていて道路からしか見れない。