渡川の戦いの歴史、感じる場所。
渡川古戦場跡の特徴
長宗我部元親の土佐統一の舞台となった場所です。
幡多地方をめぐる歴史的な決戦の跡地です。
八幡の古戦場として歴史ファンに人気があります。
2024年7月初訪問。某歴史シュミレーションゲーム好きの私。せっかく中村まで来たからには公家大名 土佐一條氏ゆかりの地、特に某歴史シュミレーションゲームでは屈指の無能大名として名高い土佐一條氏4代目当主 兼定さんの軌跡を追いたいと思い、こちらの古戦場跡も訪れてみました。1574年、長曽我部元親さんの策謀などによって本拠地 中村を追われた兼定さん。翌年、本拠地 中村の奪還を目指して有志を募ってここまで戻ってきました。そして目の前の渡川(四万十川)を挟んで宿敵 元親さんと一戦交えた訳ですが負けてしまい、兼定さんは伊予に逃亡して終わりを迎えます。古戦場跡は堤防の脇の小さな公園の中に石碑と簡単な説明があるだけでこれといって何かがある訳ではありません。しかし、ここから対岸の中村の市街地を眺めると、その時の一條兼定さんの気持ちが伝わってくるというものです。「絶対に中村を取り返してやる!」と。しかし、兼定さんにとって対岸の中村の街は果てしなく遠かった訳です。かなりの戦国マニアでないと知る由もないような地方勢力同士の合戦の跡地ですが、そこには確かにドラマがありました。
長曾我部氏と幡多地方を支配地とする一条氏との決戦が行われた場所。この戦いで長曾我部氏の四国統一は決定的となった。今は土手の小さな公園に石碑が残るのみ。
長宗我部元親、信親ファンです。ただの河川敷でした↓無料キャンプ出来ます。
長宗我部元親が土佐統一を果たしたのが、ここで行われた渡川の戦いとのことです。近くには中村城があります。
| 名前 |
渡川古戦場跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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四万十川の戦い(渡川の戦い)は、1575年(天正3年)に土佐国(現在の高知県)で長宗我部元親と土佐一条氏の間で行われた合戦です。この戦いは、長宗我部元親による土佐統一を決定づける重要な戦いとなりました。四万十川の戦いの経緯⦿一条氏の隆盛五摂家の流れを汲む一条家は、幡多地方(現在の高知県四万十市)を拠点に周囲の豪族を束めて勢力を拡大していきました。⦿長宗我部元親の台頭一方、長宗我部元親は、土佐統一を目指し、一条氏の勢力に迫っていました。⦿一条兼定の追放1574年(天正2年)長宗我部元親は、一条兼定を追放し、土佐国をほぼ制圧しました。⦿兼定の復権追放された一条兼定は、大友氏を後ろ盾に旧領回復を試み、1575年(天正3年)7月、伊予国(現在の愛媛県)から四万十川流域に進軍しました。⦿合戦の勃発長宗我部元親は四万十川の東に陣を構え、一条軍を迎え撃ちました。⦿長宗我部軍の勝利長宗我部軍は兵力で劣る一条軍を巧みな戦術で打ち破り、栗本城に撤退させました。⦿土佐統一栗本城を陥落させた長宗我部元親は、土佐国を完成に掌握し、土佐統一を成し遂げました。(長宗我部元親と四万十川の戦い)四万十川の戦いは、長宗我部元親にとって土佐統一を成し遂げるための重要な戦いでした。巧みな戦術と武勇で一条軍を破り、土佐を平定しました。その後、長宗我部元親は四国統一を目指し、四国各地で戦いを繰り広げることになります。その他⦿四万十川の戦いは『渡川の戦い』とも呼ばれいます。⦿一条兼定は、四万十川の戦いで破れた後、伊予国に逃れ、その後瀬戸内海で隠遁生活を送り、10年後に43歳で死去しました。⦿長宗我部元親は四国統一を達成しましたが、その後、豊臣秀吉の四国攻めによって土佐一国の大名として豊臣家に降伏しました。