玉祖神社の先に、光平の歴史。
伴林光平墓の特徴
玉祖神社の鳥居からすぐの場所にあり、アクセスの特徴があります。
幅広い歴史を持つ伴林光平に関連する墓地です。
教育委員会の碑があり、学びの重要性が感じられます。
天誅組の志士である伴林光平の墓と八尾市教育委員会の碑。彼の墓は八尾から大和の安堵町の今村文吾のもとへ通った十三街道脇の玉祖神社の鳥居前の池のほとりにひっそりと立っている。彼は天誅組の旗上げに参加後京都で捕縛され処刑されている。天誅組の志士の墓が八尾にあるとは驚かされる。
文久三年、天誅組記録方として参加し、本隊の退路を探索するということで本隊から離れ、先に東吉野村鷲家口を通過。その後本隊は鷲家口にて壊滅。その後一度斑鳩の自宅に戻り同行していた平岡鳩平と連絡を取ろうとするも会えず一人で行動中幕府側に捕らえられる。奈良奉行所に抑留されるも門下生が多数いたため待遇は良かったようだ。これを危険と感じた幕府側が京の六角獄舎に送る。元治元年二月六角獄舎にて刑死。
光平は林に生まれ、早くから国学を学び、江戸の伴信友に師事した、弘化二(一八四五)年教恩寺の住職となり十六年間住んだが、仏事勤行よりも国典を講じ、和歌を教えまた御陵の調査に専念し、大阪、河内、大和に門人多く書画をよくした。 文久二(一八六三)年、天誅組の旗上に参加、のち捕えられて京都六角で処刑された。 生前大和、大阪の往復のさい、この地北方の十三街道を通っており大正三年光平五十年忌にあたり、河内の有志がこの墓をたてた。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】
名前 |
伴林光平墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.4 |
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入る場所がわかりにくく、柵やガードレールに囲まれているので乗り越えて入らなきゃいけないのかと思いきや、よく見ると玉祖神社の鳥居から下ってすぐのところに扉がありました。藤井寺市林の尊光寺に生まれた光平は、各地で学んだ後に、現在でいうところの八尾市街中心部にあった教恩寺(現在は廃寺で光平の句碑が建っています)の住職となり、そこで国学や和歌などを講じ、多くの門下生を抱えます。おそらく教恩寺の住職を務めながら、十三峠越えで大和の友人や弟子たちのもとを何度も訪ねたことでしょう。その後教恩寺を突如として出奔、駒塚古墳(斑鳩町。光平の句碑が建っています)の一画に居を移し、尊王攘夷活動に身を投じます。おそらくこの際も十三峠越えで向かったことだと思います。光平の暮らした八尾の町を一望でき、彼のよく歩いた十三峠越えの傍らである。それでいて古墳散策がライフワークであった光平にとっては、古墳が点在し、古の葬送の地であったこの地は墓地の立地としてなるほど頷けるような気がします。現在は来る人も疎らなようで、草むした墓地に時代の流れを感じます。