堤氏の足跡追い、日田八奉行の旅。
城内公園 堤城跡の特徴
毎月末の日曜日に公園清掃が行われ、地域の交流があります。
祖先の足跡をたどることができる、歴史的な名所です。
日田八奉行の堤越前守鑑智の城跡に位置しています。
草刈り完了(^-^)/毎月末の日曜日は町内の公園清掃日です(^^;今日は天気良いから🍙持って遊びにおいで‼️
日田八奉行の堤越前守鑑智の城跡です。坂を登ると専用の駐車場があります。公園自体は展望の東屋ほかに大師堂や観音様、樹木があります。城跡として確認できる遺構はわずかです。
祖先である堤氏の足跡をたどる旅で訪れました。敷地内の立派な石碑に以下の碑文が記されています。堤城跡千倉峰懐古 吉永正春作相約豊西南北河 暗雲可恨沛然波千倉山下血烟跡 堤氏悲風哀惜多この地は堤氏居城の跡である。系図によれば筑前の目代織田則隆から十二代の道真が保元年間に日田に来たりて郡司の大蔵氏仕え、堤に住して堤氏を称した。さらに十代の後裔、堤越前守鑑智は大蔵日田氏滅亡後、郡司職が廃されると大友氏の幕下となり八大軍老の一人として郡内の統治に当った。天正9年(1581)筑後長岩城の問註済親則は、筑前の秋月種実と共に、日田に侵攻した。大友氏は筑後の防備として、かねて日田の石井、高井嶽に城砦を構え、時の城代は堤越前守鑑智の弟平右衛門尉であった。平右衛門尉は大軍敵を受けて奮戦したが及ばず、遂に討死し、高井嶽城は落ちた。いまこの堤城に昔日の俤はないが、かっては本丸から二の丸への抜け穴や古井戸、馬場の跡などの遺構が見られ、戦国時代の貴重な史料である。
| 名前 |
城内公園 堤城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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感謝してます。ネット検索にて「日田んもん」さんの記事が大変勉強になりましたので載せさせて頂きます。以下、下記が「日田んもん」さんの記事です。左手に堤城についての説明が書かれている碑・堤城跡碑文がありました。全文がわかりましたので写します。この地は堤氏居城の跡である。系図によれば筑前の目代織田則隆から十二代の道真が保元年間に日田に来たりて郡司の大蔵氏仕え、堤に住して堤氏を称した。さらに十代の後裔、堤越前守鑑智は大蔵日田氏滅亡後、郡司職が廃されると大友氏の幕下となり八大軍老の一人として郡内の統治に当った。天正9年(1581)筑後長岩城の問註済親則は、筑前の秋月種実と共に、日田に侵攻した。大友氏は筑後の防備として、かねて日田の石井、高井嶽に城砦を構え、時の城代は堤越前守鑑智の弟平右衛門尉であった。平右衛門尉は大軍敵を受けて奮戦したが及ばず、遂に討死し、高井嶽城は落ちた。いまこの堤城に昔日の俤はないが、かっては本丸から二の丸への抜け穴や古井戸、馬場の跡などの遺構が見られ、戦国時代の貴重な史料である。(本丸跡かな 正面に釈迦如来像が見えます。)保元年間とは平安時代末期の1156年から1158年です。壇ノ浦の戦いが1185年、戦国時代は1493年から1590年と言われます。日田は大蔵日田氏が1444年までの590余年もの長期間、治めていました。しかし、天文7年(1548)に大友氏の流れの日田氏が断絶し本家の大友義鑑が選出した大蔵氏一族が日田の政治を執る事になりました。それが日田の八奉行や八群老といわれる財津氏、坂本氏、石松氏、高瀬氏、羽野氏、堤氏、佐藤氏、世戸口氏の八氏です。堤鑑智は日田八奉行の1人です。堤氏は有田郷堤村、現在の城内付近を治めていたと思われます。(奥にある石像 本丸跡の奥には多くの石像が納められています。)大永3年(1523)、手城岳の戦いが日田で起きます。大友義鑑は日田の八郡老を先手として、筑後の溝口、川崎、西牟田の各氏を討伐する為に出兵します。この時、藤山城主・財津永満は抜群の働きをしますが、おとしいれられ大友義鑑に攻められる事となります。堤城主・堤弾正少輔と高瀬城主・高瀬越後守は大友義鑑の命令で藤山城を攻撃する事になりますが、その日は大雨で高瀬勢は川を渡ることができずに出陣が遅れたます。そこで堤勢は高瀬勢を待たずに、単独で藤山城に向かいますが、予めこれを察知していた財津勢に途中で待ち伏せされて、あえなく討たれてしまいました。藤山城はその後の高瀬勢の攻撃で陥落し、永満は周防(山口県)に逃げます。以上です。(何かお役に立ちましたら幸いに存じます。)お掃除が行届き綺麗に整備され、関係者各位、並びに地域の皆々様のご苦労様とお陰様に感謝致します。気持ち良く参拝させて頂きました。🙏😊神様が美しくありますように。神様が楽しくありますように。神様が幸せでありますように。神様が豊かでありますように。宇宙の調和に感謝します。宇宙の調和に感謝します。宇宙の調和に感謝します。🙏🥰