八王子城址で歴史を感じる!
八王子城 御主殿跡の特徴
北条氏照祭りが開催され、歴史を感じる場です。
八王子城の中心に位置し、御主殿跡は見どころ満載です。
堅牢な橋を渡り、城門の柱も再建された空間です。
大手門→大手道→曳橋→虎口→御主殿跡。八王子城跡のなかで、石垣もあり整備されてもおり一番城跡らしい場所。
当時のものとは違って堅牢な橋を渡り、石の階段を上がり、ちょっと左に曲がったところに城門の柱が再建されています。その先は広々としていて、中ほどには発掘中の作業場所もあります。建物の文献はないのなら創造力に任せ、再建しない方がよいかなと感じました。
かなり広く、かつ平らな空間。礎石や説明板も多数設置されており、未だ発掘中である。まだまだ今後に期待できる城跡だね。
曳橋についてのパネル(?)があります。この位置だと遺構と呼ぶべきものは特段みあたらないのですが、このピンは何をさしているのかな?御主殿跡のダブリじゃないかと指摘しましたが、google先生には採用されませんでした。曳橋の末端あたりなので遺構といえば遺構かもしれないけど、ピンを独立に立てるほどではないのではないかと。2021/2/6追記パネルをよく確認したところ、川のこちら側でも石垣跡がみつかったんだとのこと。本日再度訪問して眺めてみましたが、どのあたりが当時の石垣跡なのかわかりませんが、数々のドラマがここで繰り広げられたであろうと思うと感慨深いものです。
八王子城跡にある御主殿跡。御主殿跡までは無料駐車場から徒歩5分程度で行けますが、本丸跡は山登りを有するので20分程度かかります。駐車場の隣には八王子城跡ガイダンス施設があるので事前に情報収集しておくと良いと思います。小田原に本拠をおいた小田原北条氏の三代目、氏康の三男、北条氏照(?から1590年)が築いた山城です。築城の時期ははっきりしませんが、天正年間に築城が開始され、氏照が滝山城から移ったのは天正12年(1584年)から天正15年(1587年)の間とする説が有力です。天正18年(1590年)6月23日、豊臣秀吉の関東制圧の一環で、前田利家・上杉景勝軍に攻められて落城しました。この、八王子城落城が決め手となって籠城を続けていた小田原城は開城、北条氏は滅亡しました。氏照はこの時、小田原に籠城中で、開城後、兄の氏政とともに城下で切腹しました。八王子城は、関東屈指の山城です。氏照が構想していた城郭は壮大で、落城時はまだ未完成の状態であったと考えられています。城は大まかに、城下町に当たる「根小屋地区」、城主氏照の館のあった「御主殿跡」などの「居館地区」、戦闘時に要塞となる「要害地区」に分かれています。平成2年(1990年)の落城400年という節目に、御主殿地区の石垣と虎口などの通路、御主殿に続く古道が整備されました。石畳や石垣は、発掘によって確認された当時のものをなるべく活用し、破損していた個所についても、できるだけ当時の形に忠実な復元がされています。また、見学者の案内のために管理棟が建てられ、広場に八王子城案内板が設置されました。八王子城周辺は、江戸時代には徳川幕府の直轄地、明治になってからは国有林となっていたため、あまり人の手が入らず、御主殿周辺の遺構は良好な形で残っていました。要害地区は深沢山(城山)の地形を巧みに利用して作られています。頂上に本丸が設けられ、周囲に敵の侵入や攻撃を防ぐために「曲輪」と呼ばれる平場が配置されています。戦国の山城としての状態を良く残していることなどから、平成18年4月に日本城郭協会より「日本100名城」に選定されました。八王子市内では八王子城のほかに滝山城が「続日本100名城」に選定されています。(八王子市HPより)
八王子城の中心ともいえる場所、北条氏照の居館があったとされる場所です。御守殿までの古道や曳橋など当時のものではありませんが、見事に再現しており歩いているだけでワクワクしてきます。虎口付近の石垣は検出したそのままの状態になっているようです。400年間も崩れずに残っていたものです。御守殿には主殿や会所、庭園跡があります。これらは一度掘ったものを再度盛り土してその上に再現しているようです。こちらでは陶器や茶道具、またベネチア産レースガラス器などが発見されており、北条氏照の人間味を感じることができます。
名前 |
八王子城 御主殿跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
042-620-7265 |
住所 |
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評価 |
4.2 |
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今日は3年ぶりにこの八王子城址で、北条氏照祭りが開催されました。甲冑武者、総勢170人の行列はとても良かったです。