築地塀と歴史を感じる寺。
観音寺の特徴
1611年に創建された長福寺からの歴史を感じる寺院です。
美しい築地塀は谷中のシンボルの一つとして知られています。
赤穂浪士とゆかりのある、特別な文化財があるお寺です。
夏詣。赤穂義士供養塔を祀られている寺。
谷中七福神めぐりをしていた時のこと。田端駅から上野に向かうルートでまわった。谷中ぎんざを通り、4か所目の長安寺の手前のお寺に足が止まった。七福神のお寺以外立ち寄ることはなかったのであるが、ここは違った。門の前の説明板にこのお寺が赤穂浪士ゆかりの寺とあった。赤穂浪士の討ち入り時の6世朝山和尚(文良)の兄が近松勘六行重、弟が奥田貞右衛門行高で二人は赤穂浪士四十七士の一員でもあった。そういったことで朝山和尚は何かと赤穂浪士には便宜を図り、このお寺が赤穂浪士の打ち合わせの場所ともなったという。本堂右手に二つの塔があり、低い塔が赤穂浪士の供養塔だという。忠臣蔵には関心があり、これまで赤穂浪士ゆかりの地といわれるところをいろいろ訪ねてきたが、ここがゆかりの地であることをこの時初めて知った。
寺院不大。安静祥和。一个主殿、一个护殿。一棵大樟树、两枚护塔。落ち着いたところだった。
静かなお寺でしたサンスクリット語の御朱印が気になっていて静岡から参拝させていただきました本堂の左手にある建物の中で声をかけると若めの男性2人が対応してくれました。とくに封筒や袋は無く、御朱印をそのまま貰いました。スワロフスキーがついてるので帰路で取れてしまわないか気になる方はファイルや封筒を持っていくといいと思います( ¨̮ )
樹木葬のお墓があるのでお参りしました。左奥の入口から入ると、一組200円でお線香が購入でき火もつけてくれるので手ぶらでOKです。そこで御朱印も頂けて、季節ごとに変わるみたいで切り絵のようで素敵です。
朝倉彫塑館を出て谷中霊園に向かう途中にある 観音寺 さんの 築地塀 が今回一番楽しみにしていた文化財です。以下、観音寺HPより観音寺は徳川家康が江戸幕府を開いて間もない慶長十六年(1611)に創建された、奈良県桜井市初瀬にある長谷寺はせでらを総本山とした真言宗豊山派の寺院です。江戸時代の区画整理によって延宝八年(1680)に神田から現在地に移転し、以来谷中寺町の一角を形成しています。現存する 築地塀(つきじべい)は幕末の頃に作られたもので、国の登録有形文化財に指定されており、谷中のシンボルの一つとして多くの方に親しんで頂いております。また、観音寺は赤穂義士ゆかりの寺と知られ、境内に四十七士の供養塔があり、『忠臣蔵』のファンの方など、数多くの方が当寺を訪れています。観音寺門前の道は、不忍池からひぐらしの里(日暮里)まで通じる、いわゆる「谷中のみち」で、江戸時代には文人墨客や粋人たちが、四季おりおりに杖をひいたと言われ、現在でも江戸情緒の残る谷中・根津・千駄木を「 谷根千やねせん」と呼び、多くの方が観光を楽しんでおられます。
この辺には真言宗のお寺がいくつかありますね。八十八ヶ所巡り以外は御朱印をもらえないところもありますけど、こちら観音寺は二種類の御朱印をいただけます。今回は「阿」を書き入れてもらいました。敷地は大きくないですが東屋らしい休憩場所もあります。赤穂浪士の供養塔もありました。
1611年に創建された寺。創建時は神田にありましたが、数回の移転を経て1680年に現在地に移転。赤穂浪士ゆかりの寺として 知られています。赤穂浪士四十七人士の中の近松勘六と奥田貞右衛門の兄が当時の観音寺第六世朝山和尚(文良)の弟です(近松が兄で奥田が弟)。朝山和尚は二人に対して便宜を図り、赤穂浪士の会合がこの寺で度々開かれたと言います。討ち入りの際、勘六は「今日の仕儀勘六喜んで身罷ったと、長福寺(当時のこの寺の名前)の文良にお伝え下されたい」と遺言しました。赤穂浪士の討ち入りの後、彼らの供養塔が建てられて今に至ります。
築地塀は幕末に作られ谷中のシンボルの一つで登録有形文化財に指定されている。赤穂浪士討入りの会合にもよく使われ、討入り後には赤穂浪士供養塔が建立される。奈良の長谷寺を総本山とした真言宗のお寺。
| 名前 |
観音寺 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
03-3821-4053 |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 9:00~16:00 |
| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
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築地塀は、正面入口から左回りで、回り込むと見ることができます。築地塀も素晴らしいが、その道の向かい側の民家?にも塀があり、こちらも劣らず素晴らしいですね。