中世の砦、柴崎城跡探訪!
柴崎城跡の特徴
タラの芽採りの帰りに立ち寄れる便利な場所です。
海沿いに位置する中世の砦としての歴史があります。
安東氏の三段構えの城の一つで見応え十分です。
柴崎城跡です。現在は神明宮が鎮座しています。
安藤氏(安東氏)史跡。2023年9月24日来訪。1229年、十三氏を滅ぼし十三湊を手に入れた安東氏が、蝦夷支配の拠点として築いたとの説や、十三湊が大きな津波で壊滅した為に、小泊湊を水軍拠点として整備し、柴崎城を築いたとの説があるようです。十三湊を拠点に、交易により繁栄した安藤氏にとって、柴崎城は、本拠としての福島城、詰城としての唐川城と共に、背水の陣の城として、安東氏三段構えの城のひとつに数えられている。1432年、南部義政が津軽に侵攻し、福島城、唐川城を落とされ、安藤盛季は蝦夷に逃れるが、幕府の仲介により南部氏と和睦となり、十三湊に戻った。しかし、1442年、再度南部氏の侵攻を受け、盛季は柴崎城に移ったが、翌年に蝦夷に逃れた。子の康季、孫の義季が失地回復の為に津軽に侵攻したが、共に倒れ、安藤宗家直系の血筋が途絶えた。県道111号を折れ、細い道を進むと、神明宮の鳥居がある広場に突き当たる。ここまでは車で行くことができる。神明宮境内が本丸とされ、城址碑と説明板が設置されている。
2022年6月12日に見学しました。現在、城跡には、神明宮が建っています。永享4年1432年、安藤氏は、南部氏に攻め込まれ、蝦夷島に逃れました。安藤氏は、室町幕府に仲裁を申し出て、調停が上手く進み、十三湊を奪還します。しかし、嘉吉2年1442年に再び南部氏の侵攻を受けます。安藤盛季は、南部義政を防ぎ切れず、嘉吉3年1443年に福島城、唐川城を捨て、蝦夷島に撤退します。その際に最後に立ち寄った場所が、ここ柴崎城だと言われています。松前藩の家記である「新羅之記録」によると、盛季の子康季は、津軽奪還戦の最中に病没し、孫の義季は、討ち死にしました。この時点で安藤宗家直系の血筋は、断絶してしまいます。その後の敗残兵は、深浦方面に退去したようです。種里城の大浦氏と対峙することになりました。
5月の連休中、タラの芽採りの途中に寄りました。
安東氏 三段構えの城(福島城・唐川城・柴崎城)の最後、海沿いにある背水の陣。南部氏に攻められ、ここから蝦夷へと逃れたとされています。入口の道沿いに土塁と横堀のようなものがありますが、それより上側の散策路をしばらく進むも、城らしい雰囲気は感じられず。神社社殿の脇に城跡碑あります。
中世の砦的な山城。
| 名前 |
柴崎城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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2025.6.9青森県中泊町小泊大山長根にある城跡。安藤氏の居城跡。十三湖に拠点を置く安藤氏の詰めの城とされている。現在、神明宮のある山麓の辺りが本丸とされていることからすれば、背後の山に拠るための山城との性格は薄い。むしろ、城の北側には良港が近く、蝦夷地への脱出の為に再編する集合地点のような役割が想起される。