荘厳な自然に抱かれた医王山最勝院国分寺へ!
武蔵国分寺の特徴
心を清らかにする荘厳な雰囲気を持つお寺です。
江戸時代の建築様式の立派な門を有しています。
野鳥のさえずりしか聞こえない静けさが魅力です。
荘厳な雰囲気と武蔵野の豊かな自然に囲まれた境内は心を清らかにしてくれます。ハケを背後にしており湧水が流れ、雰囲気もあります。今朝訪れたら美しいパステル三毛猫がいました。おそらく地域猫さんと思われますが、人懐こい性格で『にゃー!にゃー!』と語り掛けており、お腹が空いていたのかな?JR中央線西国分寺駅から徒歩10分。駐車場はありませんので、公共交通機関をご利用ください。
江戸時代の建築様式を取り入れた立派な門を進むと、広い境内を備えた武蔵国分寺があります。
現在の武蔵国分寺は小さなお寺ですが、南側の武蔵国分寺跡を見ると、創建当時は大きなお寺だったことが伺える。隣の薬師堂も含めて武蔵国分寺と言えると思う。寺務所には「当分御朱印はやっていません」と書かれていたが、お願いしたら書き置きの御朱印を頂けた。
この辺りは神社があったり、薬師堂があったり、仁王門があったりと、深く長い歴史のある一帯ですね。こちらのお寺も本堂は大きく、境内に入る前には大きな門が参拝者を迎いれてくれます。
広大な武蔵国分寺跡の一隅に、真言宗豊山派の国分寺がある。国分寺跡から続く一本道の先に石段があり、それを上ると古い仁王門があり、更に、石段を上がると薬師堂が、その歴史を物語るかの如く建っていた。並立している八幡神社に手を合わせて帰ろうとしたが、横道に入ると大きな山門が目に止まり、そこが国分寺であることに気が付いた。境内は、この宗派の総本山長谷寺を始めとし、草花を大事にする特色を存分に表現している。周辺も散歩コースとして整備されており、年配者が静かな時を過ごしていた。
この辺りは武蔵丘陵地で奈良時代は中野辺りまで海辺が来ていて、高台だったリ、水源があったが故、このお寺の周辺部に住居跡が集まっていたのでは。
ついに多摩八十八ヶ所の御朱印頂けました😃本当に難儀しました😅ご住職と電話連絡が取れ印刷の御朱印は大丈夫とのことでようやく・・・授かりましたある意味多摩八十八ヶ所の最難所かも知れません😅ポイントは【ご住職】と電話で話が出来るかにかかっています🙏南無大師遍照金剛(。-人-。)
お寺です。いわれは深いんだろうなぁ、よー、わからんけど。でも、ここいら一帯、人が穴居時代から住み続けてるんだよね。当時も寺ってあったんかね。ないよねぇ。要はここは、この界隈一帯は、人間の生活があったって場所なんだ。そこに中央政府の建立指示のもと、お寺さんが建てられた。建てたのは政府の威光を示す?ため? まぁ、人々の生活・考えを宗教的側面から支えることを通じて、国家の安定を図ったんだろうけど、でもそれは、実際の当地ではどうだったんだろうね。お寺、ここにいた人達にとっては、この地にいる人々に寄り添うように建立されたものなんだ、と思ったんじゃないかな。人とともにあれ。ここに居る人と共にあり、導こう、と考えたんだろうな、と思う。ありき、じゃないんだ。あってこそ、なんだ。人を救う存在、あってこそなんだ。だから、ありがたい。
多くの人が知っているけど、あまり行ったことはない場所。武蔵国の国分寺。東京郊外とは思えないこの一角だけ鎌倉や京都の路地に迷い込んだ感覚になる。とても不思議な場所。
名前 |
武蔵国分寺 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
4.0 |
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真言宗豊山派のお寺で医王山最勝院国分寺といいます。御本尊は薬師如来になります。医王山最勝院国分寺は奈良時代の天平十三年(741年)に、聖武天皇発布の詔(みことのり)により鎮護国家を記念して全国に六十寺余り設置された国分寺の一つで、武蔵国分寺(現国指定史跡:武蔵国分寺跡)の後継寺院という位置づけになり「武蔵国分寺跡」の傍らに建っています。「武蔵国分寺」は鎌倉時代末期の元弘三年(1333年)の五月十五日に、新田義貞公率いる倒幕軍と恵性入道泰家(北条高時の弟)率いる鎌倉幕府軍が分倍河原一帯で激突した際に、敗れた新田義貞軍にによって奈良時代に創建された「武蔵国分寺」の伽藍は廃燼に帰してしまったと伝わりますが、建武二年(1335年)に新田義貞公によって薬師堂が再建されたという。最勝院国分寺の現在の薬師堂と仁王門は、江戸時代中期の再建による建物です。戦火による焼失を免れた薬師如来(重要文化財に指定)は、木造寄木造りで像高約1.95メートル、最勝院国分寺の御本尊として薬師堂に安置されています、日光菩薩・月光菩薩を脇侍に従え薬師三尊の形を取ります、また眷属として十二神将を従えていて毎年十月十日(目の日)に御開帳されます。