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名前 |
宮本包則の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
幕末から大正時代を生きた著名な刀鍛冶師。月山貞一と並び称されるとかで、現代刀の泰斗の一人。天皇家御贔屓の御用鍛冶でもあった。墓所には漢籍碑文がある。内容は下記の通り。【原文】天保元年八月鳥取藩大柿酒醸家惣右衛門之次男幼名澤次郎嘉永二年歳二十二入長般名工祐包之門師事七箇年勇猛精励師印可其技授偏諱稱包則 文久二年卜居京都堀川於時拝有栖川宮殿下之命鍛御太刀慶應二年奉命孝明天皇而御太刀奉鍛賜能登守 明治元年從官軍之東征於陳中鍛太刀以奉有栖川総督宮此夏参籠於名匠宗近之遺跡伏見稲荷干時奉命 明治大帝御太刀奉鍛復伊勢大神宮御造營之寶劍奉鍛 明治十九年被命東上伊勢大神宮御造營之寶剣奉鍛 明治廿四年於上美術協會浴鍛冶術 天覧之光榮 明治三十四年被命迪宮殿下之御守刀奉鍛 明治三十五年被命淳宮殿下之御守刀奉鍛 明治三十八年被命光宮殿下之御守刀奉鍛 明治三十九四月四日被命帝室技藝員同年奉命伊勢大神宮四十二年御造營之寶剣奉鍛 明治四十四年奉命伊勢太神宮六十二年御造營之寶剣奉鍛 明治四十五年奉命 陛下御太刀及御短刀奉鍛 大正四年御即位大典之寶剣奉鍛 同年奉命澄宮殿下御太刀奉鍛 大正八年五月特有旨被賜正七位 大正十五年十月廿二日歿干時歳九十有七有栖川殿下より賜いたる歌研きたてし 刃は小乱の 剣太刀世〃?てなほも 光久し???篠原泰嶺選並書【私訳】天保元年八月に鳥取藩大柿の酒醸家惣右衛門の次男として生まれる。幼名は澤次郎。嘉永二年,二十二歳の時に長船派の名工であった横山祐包の門下に入った。七年間,一生懸命に学び,師横山祐包から印可を貰い受ける。また,「包」の字を偏諱することを許し,宮本は「包則」と名乗る様になった。文久二年,京都堀川に占いで住所を決める。その頃に有栖川殿下の命で刀を鍛えることとなった。慶應二年,孝明天皇からの奉命で刀を鍛える。その功績で能登守を賜った。明治元年,官軍東征に従い,陣中で刀を鍛え,これを東征大総督である有栖川殿下に納める。同年夏,名匠(三条)宗近の遺跡である伏見稲荷大社に参籠。明治天皇の奉命を受け,そこで刀を鍛えた。また,伊勢神宮の造営の宝剣をも鍛える。明治十九年,東上の命を受け,伊勢神宮の式年遷宮の宝剣を鍛える。明治二十四年には,美術協会上において,明治天皇に刀剣の鍛冶術を披露する光栄を授かった。明治三十四年には迪宮殿下(後の昭和天皇)のお守り刀を,明治三十五年には被命淳宮殿下(後の秩父宮雍仁親王)のお守り刀を,明治三十八年には光宮殿下(後の高松宮宣仁親王)のお守り刀を鍛える。明治三十九年四月四日,帝室技芸員に拝命。同年,伊勢神宮四十二年式年遷宮の宝剣を鍛え,明治四十四年には伊勢神宮六十二年式年遷宮の宝剣を鍛えた。明治四十五年には大正天皇の御太刀と短刀を鍛え,大正四年には大正天皇の即位大典の宝剣を鍛える。同年,澄宮殿下(後の三笠宮崇仁親王)の御太刀を鍛えた。大正八年五月,正七位の特旨を賜る。大正十五年十月二十二日,九十七歳の時に没す。