鉄砲伝来の地、種子島で歴史を感じる!
種子島家赤尾木城址の特徴
赤尾木城址は鉄砲伝来の地で、貴重な歴史が息づいています。
1543年、初めて鉄砲を導入した種子島時堯の銅像が立っています。
鉄砲館を見下ろす丘に位置し、歴史的な景観を楽しむことができます。
種子島といえば鉄砲伝来の地。そして種子島時尭が当主の時代に鉄砲が伝来し、戦国時代の戦いに革命が起こった。
この人がこの地で日本で初めて鉄砲を目にし手にしたんやなー👍
鉄砲館を見下ろす旧榕城中学校(内城址)の入口脇に建っています。時堯公は鉄砲伝来で有名な第14代の種子島島主で、その像は左手に鉄砲を持っています。
鉄砲館周辺の見学コースの一部として歩いて見ることができます。
鉄砲館の開館を待っていると後ろから視線を感じました。振り向いた先には種子島時堯像が。屋久島トレッキングの翌々日で筋肉痛でしたが、階段を上り挨拶しておきました。
1543年、日本史上、最初に鉄砲を導入した人物がこの種子島時堯。『鉄炮記』によると、天文12年(1543年)、ポルトガル商人が乗った明船が種子島に漂着した。現在なら数億円に相当する二千両の大金による購入を決断。種子島時堯は購入した二挺のうち一挺を鍛冶職人八板金兵衛に調べさせて国産化を命じ、八板金兵衛の手による銃の製造に成功した(もう一挺は島津氏を通して、室町幕府将軍足利義晴に献上)。伝来の場所から鉄炮は種子島銃とも呼ばれ、戦国期の日本の戦場に革命をもたらした。 尚、1549年日本最初に鉄砲を実戦、合戦に使用した人物は伊集院忠朗。同年の1549年9月29日、日本最初にキリスト教が布教された場所は伊集院城。伊集院城は日本で初めて日本と西洋が初対面した場所でもある。伊集院城内にはフランシスコ・ザビエルとザビエルと島津貴久の会見石碑が建立してある。日本人最初のキリスト教徒で、ザビエルの翻訳者、案内人のヤジロウの墓は伊集院町にある。伊集院城は島津4兄弟が九州の95%以上を制覇した時の起点となったお城で、島津4兄弟が過ごされた父親の島津貴久の居城。島津貴久の筆頭家老が伊集院忠朗。伊集院城は皇室の日本最高歌人の《紀貫之》の血筋の伊集院時清が築城。JR伊集院駅前には、天下分け目の関ヶ原の戦いにて、徳川家康軍のド真ん中に突撃★敵中突破した鬼島津こと、島津義弘の日本一カッコいい騎馬像が聳え建っている。種子島時堯の娘に、伊集院忠棟の側室あるいは血筋がいる。伊集院忠棟は豊臣秀吉の準家臣。豊臣連合軍と島津家を和睦に導いた島津家筆頭家老でもあった。秀吉から10万石と知行配分責任者という特権を与えられた。徳川家康が2度に渡り調停した【庄内の乱】は伊集院忠棟斬殺が発端。加藤清正が関ヶ原に参戦出来なかったのは、息子の伊集院忠真を助けたから。伊集院忠朗は伊集院忠棟の祖父にあたり、伊集院一族は島津家に皆殺しにされる。戦国の歴史は種子島から始まり大変革をもたらした。織田信長の長篠の戦いが1575年。その26年前から種子島時堯が日本最初に鉄砲に触れている。鉄砲、第1人者である種子島時堯をもっともっと、評価すべきである。
鉄砲館を見下ろす丘に、ただ銅像が立っています。
ポルトガルが感じさせられます。種子島、有り難う御座います。
名前 |
種子島家赤尾木城址 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0997-22-1111 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.7 |
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赤尾木城址(現在の榕小)上之城は寛政元年(1624)第17代当主 忠 時 の頃から上之城に 移され居城になった、町も赤尾木の町と呼ばれるように。そして寛永19年(1642)第17代島津光久公(一国一城令)よりの命で当主は鹿児島常駐の命が下り明治2年廃藩置県迄250年間当主の居ない居城でした〜。現在銅像があるのは内城跡追記種子島家代々当主の中でも•若き当主鉄砲伝来時の✨✨時尭の進取姓と魂•戦国の世を変えた種子島(火縄銃)