神聖な金丸の旧宅跡。
内間御殿の特徴
内間御殿は第二尚氏王統の始祖金丸の旧住宅跡に建てられた神聖な神殿です。
整備が進められていますが、現状では石垣調査のため一部が柵で囲われています。
9月には内間御殿前で秋桜が満開となり、美しい風景を楽しむことができます。
綺麗に設備、清掃されてて、静かな環境木々も凄い年月がたっているな~と思う立派なのが、沢山残っていて、神聖な場所でした。
戦争の後も、みられ、沖縄の歴史も学べる場所です。銃痕もあり色々感じ、考えられる場所です。
夜にここを通りました。時間帯的な理由もあるとは思いますが、ただならぬ雰囲気を醸し出しています。安易な気持ちでの立ち入りはちょっと危険かもしれません。
🌟3.5 国指定史跡の一つです🙂※引用内間御殿は、第二尚氏王統の始祖である金丸(のちの尚円王)が内間地頭に任ぜられたときの旧住宅跡に、尚円王没後190年も経てから建てられた神殿のことである。金丸は、1415年、伊平屋間切諸見村に平民の子として生まれた。1438年、金丸24歳のとき妻や弟らと共に島をでて、国頭間切宜名真村を経て首里に上った。首里に上った金丸は、越来王子(のちの尚秦久)の家臣となった。1447年、尚秦久の推薦で家来赤頭となり、38歳には黄冠の位まで昇進した。1454年、内間領主に任ぜられた。1459年、45歳のとき、金丸は御物城御鎖側官の位に就いた。その後、金丸は尚秦久王のあとを継いだ若い尚徳王と対立し、1468年、内間村に隠遁した。翌年、尚徳王が亡くなり、群臣から推され金丸が王位に就いた。金丸が内間地頭のとき、嘉手苅の真むた親部の妹を御手掛(側室)にむかえた。その後、大殿内では青磁の枕を尚円王の御神体として祀り、御手掛への焼香が続けられた。羽地朝秀(向象賢)が摂政のとき、大殿内の屋敷に切妻造の茅葺の神殿(2間×3間)が建てられ、御神体として青磁の枕が安置され、大殿内には別の屋敷が与えられた。その後、破損したので、1689年、大美御殿によって東江御殿は樫木を使った瓦葺の神殿に改築された。このように近世代にいたり、金丸の旧宅が国家的聖地の神殿として整備されていった。1706年、東江御殿の北側に長さ3間、横2間半の茅葺の神殿(西江の御殿)が西原間切の人民らによって普請された。1735年(尚敬23年)、本殿の東江御殿に賊が入り、宝枕が盗まれた。尚敬王は自ら家臣を引き連れ捜索にあたり、ついに田んぼの中からその宝枕を見つけ出した。それを契機に1736年(尚敬24年)、東江御殿の屋敷囲いも竹垣から石垣積に改修され、本門(瓦葺の屋根を載せた門)と小門(正門のわきにある通用門)を設け、瓦屋根を葺き替えた。1737年(尚敬25年)には西江御殿も瓦葺に改められ、屋敷の周囲は竹垣が張り巡らされた。1738年(尚敬26年)、尚敬王直筆の「致和」の扁額が東江御殿の本門の軒に掲げられ、また、尚敬王の撰文になる「先王旧宅碑記」の石碑が内庭に建てられた。1824年(尚こう21年)、再び東江御殿に安置されていた御神体の青磁の枕が盗まれたので、1835年(尚育元年)師走、西江御殿に安置されていた青磁の小皿を改めて東江御殿の御神体として祀ることになった。沖縄戦で両御殿は焼失したが、石垣遺構や先王旧住宅碑の台座などは残っている。戦後の1951年、大屋門中やハワイ在住の一門らによって東江御殿跡にトタン葺の神屋が再建された。1974年、大屋の当主中山正雄氏によって、そこはブロック造りの現在の神屋(2間×2間半)に改修された。戦後、西江御殿も伊礼門中によって木造トタン葺の神屋が再建された。
整備されつつありますが、なかなか進んでない様に見えます。早めに発掘とか保存を!昔は、御殿の周りに小川が流れてホタルやターウナジャーがいた。
綺麗でしたー😁前回来た時は、時期がずれていたけど、今回はグーでした😁
内間御殿は第二尚氏王統の始祖である金丸(のちの尚円王)が内間地頭に任ぜられたときの旧住宅跡に、尚円王没後190年も経てから建てられた神殿のことである。金丸は1415年伊平屋間切諸見村に平民の子として生まれた。1438年金丸24歳のとき妻や弟らと共に島をでて、国頭間切宜名真村を経て首里に上った。首里に上った金丸は越来王子(のちの尚秦久)の家臣となった。1447年尚秦久の推薦で家来赤頭となり、38歳には黄冠の位まで昇進した。1454年内間領主に任ぜられた。1459年45歳のとき金丸は御物城御鎖側官の位に就いた。その後金丸は尚秦久王のあとを継いだ若い尚徳王と対立し、1468年内間村に隠遁した。翌年尚徳王が亡くなり群臣から推され金丸が王位に就いた。金丸が内間地頭のとき嘉手苅の真むた親部の妹を御手掛(側室)にむかえた。その後大殿内では青磁の枕を尚円王の御神体として祀り御手掛への焼香が続けられた。羽地朝秀(向象賢)が摂政のとき大殿内の屋敷に切妻造の茅葺の神殿(2間×3間)が建てられ、御神体として青磁の枕が安置され大殿内には別の屋敷が与えられた。その後破損したので1689年、大美御殿によって東江御殿は樫木を使った瓦葺の神殿に改築された。このように近世代にいたり金丸の旧宅が国家的聖地の神殿として整備されていった。1706年東江御殿の北側に長さ3間、横2間半の茅葺の神殿(西江の御殿)が西原間切の人民らによって普請された。1735年(尚敬23年)本殿の東江御殿に賊が入り宝枕が盗まれた。尚敬王は自ら家臣を引き連れ捜索にあたりついに田んぼの中からその宝枕を見つけ出した。それを契機に1736年(尚敬24年)東江御殿の屋敷囲いも竹垣から石垣積に改修され、本門(瓦葺の屋根を載せた門)と小門(正門のわきにある通用門)を設け瓦屋根を葺き替えた。1737年(尚敬25年)には西江御殿も瓦葺に改められ屋敷の周囲は竹垣が張り巡らされた。1738年(尚敬26年)尚敬王直筆の「致和」の扁額が東江御殿の本門の軒に掲げられ、また尚敬王の撰文になる「先王旧宅碑記」の石碑が内庭に建てられた。1824年(尚こう21年)再び東江御殿に安置されていた御神体の青磁の枕が盗まれたので、1835年(尚育元年)師走、西江御殿に安置されていた青磁の小皿を改めて東江御殿の御神体として祀ることになった。沖縄戦で両御殿は焼失したが石垣遺構や先王旧住宅碑の台座などは残っている。戦後の1951年大屋門中やハワイ在住の一門らによって東江御殿跡にトタン葺の神屋が再建された。1974年大屋の当主中山正雄氏によって、そこはブロック造りの現在の神屋(2間×2間半)に改修された。戦後西江御殿も伊礼門中によって木造トタン葺の神屋が再建された。
いかにも神聖な場所です。御殿は、毎日掃除してるようで綺麗です。ただ、周りの修復事業が滞っているようで、大型土嚢やプラスチックフェンスで雰囲気は台無しです。
もう長い間下がり花💠見たこと無いな、機会があれば見たい。
名前 |
内間御殿 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
098-944-4997 |
住所 |
|
HP |
http://www.town.nishihara.okinawa.jp/asset/27uchimagoden.html |
評価 |
4.0 |
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内間御殿は、琉球王朝第二尚氏の始祖、金丸(のちの尚円王)の旧宅跡地に創建された神殿(東殿)を中心とする祭祀施設です。1454(景秦 5)年、尚泰久が王位に即位すると、金丸は内間の領主となりますが、それから王位につくまでの 15年間この地に住んでいたと考えられています。尚円王は即位から 7年後の 1476(成化 12)年に亡くなりますが、その後約 190年経った 1666(康熙 5)年頃に国相・向象賢(羽地朝秀)の進言によって、旧宅に茅葺の建物、東殿(東江御殿)が建てられました。これが内間御殿の整備の始まりとなります。その後は、幾度かの改修工事を経て琉球王国の国家的聖地として整備されました。内間御殿は、国家的祭祀だけでなく、地域や村落の祭祀を執り行う場所としても利用されてきたことから、幾つもの信仰に支えられた神殿であったことが窺えます。このように内間御殿は、沖縄における祭祀信仰の実態を知る上で極めて重要な遺跡として、 2011(平成 23)年 2月に国の史跡に指定されました。-案内板より-