吉弘統幸の居城、歴史が息づく。
筧城跡(吉弘氏館)の特徴
筧城は初代柳川藩主・立花宗茂も幼少期を過ごした由緒ある吉弘一族の居城です。
筧城跡。大友氏重臣吉弘氏館跡吉弘統幸や高橋紹運や立花宗茂の誕生地。との事。
詰城である屋山城に対して、平時の吉弘氏の居城。車ですぐ横まで行けます。吉弘氏は、石垣原の戦いで有名な統幸、耳川の合戦で戦死した鎮信以外にも、三老に列せられ、毛利との戦いで活躍した鑑理、岩屋城の戦いで島津軍相手に玉砕した高橋紹運、立花宗茂と、勇将を輩出する家系です。
筧城(かけいじょう。吉弘館とも)です。大分県豊後高田市にあります。西国東郡の武士をまとめあげた大友氏の重臣吉弘氏は、代々「屋山城(ややまじょう)」を居城にしていましたが、政務や普段の生活を行う場として「筧城(かけいじょう)」(筧の第)があったと言われています。吉弘統幸や高橋紹運、立花宗茂といった英雄たちが、ここ筧城で生まれたと考えられているそうです。(大分県豊後高田市ホームページより)途中、玖珠町を通過したのですが、谷あいの人里で朝から、老人車に座って、お婆さんが山に向かって手を合わせて念仏を唱えていらっしゃいました。谷あいですから、農地開発や農作業はとても厳しいことが想像されます。このような、厳しい環境と信仰心に育まれるならば、戦国の傑物がこの地で生まれるのは、必然と言えると思います。(お詫びと更新)はじめ、立花直次も筧城で生まれたとしていましたが、誤りのようで、直次は筑前宝満城の生まれのようです。お詫びして更新します。
吉弘統幸公ゆかりの地なりし居城吉弘統幸は大友氏に仕えた武将で都甲地域一帯を統治西の関ヶ原合戦と呼ばれる石垣原の戦いで戦死した名将筧城は統幸のいとこにあたる初代柳川藩主・立花宗茂も此処で幼少期を過ごしている。
大友二階崩れを読了後、訪れるとより味わい深いです。
我が一族、吉弘一族の居城。
名前 |
筧城跡(吉弘氏館) |
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ジャンル |
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住所 |
〒879-0731 大分県豊後高田市氏館大分県豊後高田市長岩屋49 |
評価 |
4.2 |
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赤神諒氏の本「大友二階崩れ」、榊山悟氏の本「武辺の使い道」を読んだら、無性に行きたくなりました。宇佐駅からバスで高田本町まで。そこから昭和ロマン蔵に行ってレンタサイクルを借りて登城。片道30分ほどでした。吉弘氏の居館跡と言われているところです。詰城だったと言われている屋山城をここから見ることが出来ます。また近くに吉弘氏の菩提寺であった金宗院跡があるので、併せて訪れることをお勧めします。