壕の中で感じる、沖縄戦の記憶。
轟壕の特徴
・沖縄戦の避難壕として、歴史的・文化的価値が高い場所です。
・壕内はおどろおどろしい雰囲気と湿度の高さが特徴です。
・入口付近には駐車できる広場があり、アクセスも便利です。
平和学習でガイドの方に案内して頂きました。現在は入れないようです。中はドーム状で想像以上に広く、真っ暗で静謐な空間が広がっています。この中で戦時中は避難民が身を寄せあっていたかと思うと胸が痛みました。入り口は草木が生い茂り、湿度も高いので蚊に刺されないよう、対策は必須です。
最近は人があまり訪れないらしく、草木で覆われていて昼間でも1人では不安で近くまで行けませんでした。沢山の蚊があっという間に刺して来て長袖長ズボン必須です。
轟壕は東西方向に伸びる自然洞穴で、地元ではトゥルルチ、またはトゥルルシなどと呼ばれています。1945年3月に米軍による空爆や艦砲による攻撃が始まると、真壁村名城の住民が避難しましたが、日本軍の南部撤退で司令部を摩文仁に移した5月末頃から、戦禍に追われた地域外からの住民も避難して来ました。6月7日頃に島田叡知事以下の県庁首脳部がこの壕に移動。15日の夜、知事は県幹部を集めて県庁の活動停止を命じており、沖縄県庁最後の地とも言われています。知事は16日朝、摩文 仁の司令部に向かいました。同じ頃、銃剣などで武装した日本兵十数人が入り込み、入り口付近を占拠し、軍官民雑居の状態となりました。6月18日頃から米軍による、ガソリンや爆薬の入ったドラム缶を落とし込むなどの「馬乗り攻撃」が始まり、死傷者が出ました。手持ちの食糧が尽きた住民のなかには衰弱死する者も出ました。6月25日頃、先に米軍の捕虜となった宮城嗣吉さんらが投降呼びかけを再三行ったことから、約500人から600人の避難民は壕を出てきました。-案内板より-
2023年8月歩いて沖縄一周の旅で訪れました。夕暮れ時に行ったのですが、かなり暗いので足元注意です。とても勉強になり貴重な経験になりました。
那覇から摩文仁に向かう途中、糸洲の壕の看板より100メートルほど手前の左カーブを曲がってからすぐ右へ行く道の左側にやや横長のコンクリートの数段の階段が見えますのでそこを目印に路上駐車をするしか方法はありません。数年前にこの出入り口に石の階段がつくられましたが駐車場もなく表示もありません。階段を上って突き当りの左手に下るようにガマがあります。単なる観光客、レンタカーの人は気が付かないかもしれませんが絶対に行っておくべき戦跡です。島田知事や荒井警察部長もすごした県庁壕の機能も持ち官民両方とも利用した壕です。水が多いので長靴、ライトは必需品です。
壕内に入れますが風化で崩れてる箇所が多くあるのでヘルメットが有ったほうが安全です。また、中は灯りが無いのでライト必須です。スマホのライトでは明るさが足りません。ヘルメットに付けるようなライトがあると安全に中に入れます。
戦時中の避難壕。県知事のほか県庁幹部もここに避難していたが知事が県庁の活動停止命令を出し沖縄県庁最後の地とも言われているとのこと。ここで多くの人が亡くなった一方で600人もの人が無事壕を出ることができたそうです。
戦時中の避難壕。県知事のほか県庁幹部もここに避難していたが知事が県庁の活動停止命令を出し沖縄県庁最後の地とも言われているとのこと。ここで多くの人が亡くなった一方で600人もの人が無事壕を出ることができたそうです。
沖縄戦終盤の持久戦時に使用された豪、一般の方や県庁機能もこちらにあったようで1000人の人たちが居たそうです。洞窟の入口以降が100mに渡りあるそうですが漆黒の世界となり、当時の事を考えると明かりがあっても立ち入りは危険かと。下から見上げる景色では当時の事を考えると心が引き裂かれる様な気持ちになりました。駐車場等はありませんので近隣の方、交通の妨げにならない所に配慮した場所に停めて行かれる事が必要です。
| 名前 |
轟壕 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
098-840-8135 |
| HP | |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
|
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信号のある交差点のすぐ南側です。目立つ看板も、ゲートも、管理事務所もありません。駐車場もありませんが、短時間なら前面道路に駐められる感じです。コンクリートの階段を上がって、20−30メートル進むと壕の入り口があります。かなり大きな洞窟で、中には入りませんでしたが、静謐な雰囲気です。草木が茂っています。ハブには注意?。