沖縄の歴史感じる健児の塔。
沖縄師範健児之塔の特徴
沖縄戦で学徒動員された生徒が祀られている場所です。
鉄血勤皇隊が追い込まれた歴史の深いスポットです。
普段は訪れない静かな場所で心に響く体験ができます。
健児の搭を見学しに、行った時にそのまま海が見える海岸に出ました。写真が残っているのでご覧になってください!
この塔は、一九四五年の沖縄銃で散華した沖縄師範学校校男子部の野田校長以下職員・生徒の御重を祀ったものである。鉄血勤皇師範隊は、三月 三十一日沖縄守備軍の命令によって編成された。以来、同隊は軍と共に首里戦線からここ摩文仁の地をて勇戦闘い 三百十九技柱の職員・生徒を失った。まことに痛ましく断腸の思いである。時は流れて 一九四七年「幸運にも生存した当時の在学生が、これら戦没学友の冥福を祈って塔の建立を発案した。戦後の混沌とした世相のなか苦労して募金運動を展開し同窓の先輩諸氏の協力を得て、一九五〇年 五月 二十五日この塔を落成した。-碑文より-
沖縄を訪れるたびに焼香させていただいています。他の人も書かれておりましたがひめゆりの塔の盛況に比べここはいつも私一人です。水洗トイレも完備され各部隊の碑も近隣にたくさんあります。以前は坂の入り口の建物が土産物屋であり駐車が可能でしたが閉店して20年くらいになると思いますが私有地であるため駐車スペースがほとんどなくバス等も入れません。しかし、海岸線に向かって坂道の中には水くみ場や、当時をしのぶ遺跡が数多くあります。沖縄に行かれる際にはぜひご覧ください。
まだ未来や希望のあった若い子達が、戦争の犠牲になってしまった、儚く哀しい塔です。是非、手をあわせて下さい。
沖縄戦最後の激戦エリアで鉄血勤皇隊が平和の像の裏にある壕に追い込まれ、斬り込み突撃や手榴弾での自決、米軍の火炎放射で多くの若者が亡くなった場所です。車でのアクセスですが、標識や看板に従って到着した健児の塔に近い駐車場のような場所は私有地のため駐車出来ません。地権者の方に指摘されて知りました。平和祈念公園の摩文仁の丘から階段で降りてくるルートもありますがかなりハードなので、その私有地に向かう直前の十字路を西方向に右折すると道幅が広くなっているので端に路駐させてもらいました。
沖縄戦最後の激戦エリアで鉄血勤皇隊が平和の像の裏にある壕に追い込まれ、斬り込み突撃や手榴弾での自決、米軍の火炎放射で多くの若者が亡くなった場所です。車でのアクセスですが、標識や看板に従って到着した健児の塔に近い駐車場のような場所は私有地のため駐車出来ません。地権者の方に指摘されて知りました。平和祈念公園の摩文仁の丘から階段で降りてくるルートもありますがかなりハードなので、その私有地に向かう直前の十字路を西方向に右折すると道幅が広くなっているので端に路駐させてもらいました。
バス停健児の塔入口から南方面に進んだ健児の塔入口、又は平和記念公園から各都道府県の塔方面より第32軍司令部壕を通って階段を降りて行くと辿り着きます。
普段なかなか脚が向く方は少ないでしょうが、静かな歴史あるスポットもたまにはのんびり歩いてみるのも良いのではないでしょうか。
師範の方々が祀られている健児之塔。是非行っていただきたいのが、手前にある南冥の塔。こちらは多くの一般人が祀られているところ。お参りに来られたお婆さんの掃除の手伝い🧹をさせて頂き、お聞きしました。
| 名前 |
沖縄師範健児之塔 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP |
https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/okinawashihankenjinotou/ |
| 評価 |
4.4 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
80年前沖縄は戦場だった摩文仁の丘にある各県の慰霊塔を青森のみちのくの塔、岡山の塔と西へ進み、黎明之塔の手前を左に降り、崖を下る階段をしばらく降りると沖縄師範健児之塔がある。雨の日や雨の後などは枯れ葉が濡れていたりするので、注意して歩く必要がある。ここは、階段を下った摩文仁の崖の下ということもあって、忘れられたようになっているが、手入れはされている。沖縄師範健児之塔は、沖縄地上戦で動員され犠牲となった沖縄師範学校の男子生徒(学徒隊)と教職員を祀る慰霊碑。沖縄戦で約290名の学徒と教師が亡くなった。沖縄本島に米軍が上陸する直前に、沖縄師範学校の生徒386人が防衛召集を受け、陸軍二等兵として動員された。彼らは「鉄血勤皇師範隊」として、負傷兵の治療補助、陣地構築、炊事、情報収集などの任務を担ったが、中には爆雷を背負って戦車に突撃することまで強要された学徒もいた。戦況がどんどんと悪化し解散命令が出た後は、多くの学徒が艦砲の砲弾が降り注ぐ戦場を彷徨い命を落としたり、自死した。塔の後には「健児の塔」や「平和の像」も並んでいる。1972年の沖縄の日本本土復帰後、第4代の沖縄県知事となった大田昌秀さんも沖縄師範学校の生徒として沖縄戦を体験した一人。大田さんは「鉄血勤皇師範隊」の情報宣伝部隊「千早隊」に所属し、九死に一生を得て生還した。大田氏は、この壮絶な体験を生涯にわたって語り継ぎ、平和を希求する活動の原点とした。大田氏は沖縄県知事として、「平和の礎」の建立や平和祈念資料館の移転新築など、平和行政を推進した。また、自身の著書『沖縄健児隊』で学徒隊の悲劇を描くなど、沖縄戦がどのようなものだったのかを伝えることにも力を注いだ。その大田氏が、沖縄県知事選挙に出馬する際には、この塔の前で、志半ばで亡くなった学友や恩師に決意を報告し、その後も行き詰まった時にはこの塔の前に立ったそうだ。大田氏にとって沖縄師範健児之塔は、自らの戦争体験と向き合い、平和への誓いを新たにする特別な場所だったと想像する。