伝教大師最澄を祀る一乗院。
一乗院の特徴
伝教大師最澄上人を祀るお堂がある。
最澄の像が見られる貴重な場所です。
近年新しく建立された一乗院のお堂です。
最澄の像を祀っている。戦前も像はあったが、戦争中の金属等回収令で、梵鐘や貴重な仏像と共に、軍に供出した。最澄は遣唐使の命終えて帰国した後、最初に和宗の総本山(単立)四天王寺に、聖徳太子に報告の気持ちで来たとの伝説がある。令和二年に新しく作られた。最澄の像も同時に作られた。最近永代供養とか永代という言葉が良く使われているが、この言葉は仏教的ではないと感じている。四天王寺も何回か全焼したり台風で全壊している。東北の大震災で津波で浜に近い丘に松林があり墓地が岡ごと太平洋に引きずり込まれたのを知っている。仏陀は墓に関して何も語ってはいないと思う。
伝教大師最澄を奉安している一乗院。最澄自身が遣唐使で天台宗を修めたのち、帰国して向かったのが四天王寺の太子殿との言い伝えがあるそうです。
天台宗を開かれた伝教大師最澄上人をお祀りする近年新しく建立されたお堂です。法華経を天台宗の根幹とする伝教大師は、同じく法華経を講讃された聖徳太子を篤く尊崇されておられた御縁により、こちらにもお祀りされているとの事です。
| 名前 |
一乗院 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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【一乗院】かつてこの地に祀られていた伝教大師像は第二次世界大戦末期、金属類回収令により領徳大鐘楼の大梵鐘、聖霊院南の救世観世音菩薩像、六時堂束の普賢菩薩像、舞天池西の不動明王像、西大門南の親鸞聖人等と共に供出された。奈良時代、次のような事柄が一般的な話として倍じられていた。中国の陳・両朝の国師であった天台大師智額は、法華経に依って天台法華宗を開かれた。その師匠であった南缶意思禅師は五七五年頃、法華三味を修した高僧であるが、その没後は聖徳太子に転生した。(聖徳太子後身説)太子が前世の南缶慧思禅師であった時に使用していた法華経を南缶街山から感得した。また聖徳太子は日本最古で完備された法華経の注釈音である「法華経義読」を作成し、経典講義を行う等、日本に法華経を払めた先駆者である。(聖徳太子南缶取経説)青年僧最澄は幼少期より法華経に慣れ親しみ、やがて法華経を通して南缶慧恩禅師=聖徳太子天台大師智額=最澄と転生された深い縁を見出し、法華経を根本経典とした天台法華宗を日本に持ち帰る事を決意して桓武天皇の命により入唐したのが延暦二十三年(八〇四)の事であった。弘仁七年(八一六)、最港が四天王寺に参籠し聖徳太子廟(後の聖霊院太子殿)にて詠まれた法華弘通の決意表明と「普願詩」が『伝述一心戒文』に収められている。今装法華聖徳太子者、(今法華経を払めたる我が聖徳太子は)即是南慧思大師後身也。(即ち是れ南機意思師の後身なり。風戸托生、(風戸に生を託して)汲引四國、(日本国をまとめ上げ)請持経参大唐、(かつて受持していた法華経を大唐に請いて)興妙法日域、(妙法を日に奥し)等振天台、(等婦を天台に振るい)相承其法味。(其の法味を相承す。日本玄孫、興福寺沙門最澄、(日本における玄孫である沙門最港は)難愚願弘師数。(愚かなりと雞も我が師の教えを弘めんことをここに普願致します。)