坊津の歴史、輝津館で体感!
坊津歴史資料センター 輝津館の特徴
日本三大港、坊津の歴史と文化を学べる資料館です。
戦国島津ゆかりの品々が展示され、歴史好きにはたまらないスポットです。
東シナ海が見える建物と、センスのある資料展示が魅力的です。
中国との交易で栄えた、坊津の歴史と文化を学べる輝津館です。2階歴史展示室で詳しい資料が展示してあり、映像で再現された一乗院の姿も見ることが出来、その雄大な情景に圧倒されました。史跡訪問前・後でも歴史館を見学されればよりわかるかと思います。また、2階展望デッキから望める双剣石の姿は、駐車場横展望所よりも松木に遮られることなく見れますので、おすすめです!
展示が充実していました。坊津の歴史、産業、民俗など、映像も所々に交えて分かりやすく解説がなされています。館正面からの湾の景色もすばらしい。
仕事で九州南部から北部に向けてレンタカーで移動する際に、少し時間があったので立ち寄りました。日本三津の坊津。本当に綺麗な街です。こちらから観る絶景は、水墨画がそのままリアルに感じられる地形で、日本の素晴らしい景観を眺める事が出来ます。資料センターは時間の都合で見る事はできませんでしたが、貿易で栄えた貴重な資料があるのだと思います。古くからの街並みも妙に落ち着きます。忘れる事ができない場所です。是非、海外の方にも水墨画を鑑賞した後に来てほしい。
往時の坊津の歴史を紹介した、好きな人には堪らない歴史資料館。書き出すと止まらないが、ここで触れられている坊津を紹介した中国文献『武備志』は明の茅元儀(1594-1640)の著作とか。中国版ウィキペディアによると官僚であった祖父は文学者としても著名な茅坤といい、太湖南岸の浙江省湖州出身。今でも水郷の街である南潯で有名。1571年のマニラ開市や石見銀山の開発で大量に流入した日本銀、スペイン銀のおかげで16世紀後半の明朝は異常な好景気に湧くが、「北虜南倭」の多難な時代でもあり、国庫は払底。国家の危機にあって、茅元儀は祖父、父と続く文官にならず、幕僚として後金に対して軍を率いたそう。当時北京に滞在していたイタリア人宣教師マテオ・リッチとも交流し、西洋のおそらく軍事技術を学んだことだろう。しかし、実際に武功は立てても讒言に巻き込まれたりと不遇で、最期は左遷先で憤死したとか。官僚の家系であればうなるほど資産があったはずであり、祖父の出身地は当時の経済の中心地域でもある。実際、同時代の浙江省紹興の名門の文人、張岱(1597-1684?)はその夢のような生活を『陶庵夢憶』に記している。茅元儀も湖州でそうした生活ができたと思われるが、そこは色々とあったのだろう。張岱も明朝が滅亡しては資産を失って山奥で苦しい自活を余儀なくされ、そして同じく一夜にして零落した友人たちのことも書いている。ここに来るまで、茅元儀はおろか「日本三津」なる言葉も知らなかったが、調べると明末に生きた様々な人びとのありようがまざまざと浮かんでくるのであり、坊津の画像を見返すと歴史とは・・・と問いたくなる。画像は輝津館前からの坊津の景色。
日本三津と呼ばれた坊津。それを確かめる旅でしたが、港に行っても何もなし。ただの小さな漁港…。何か無いかな?と歴史資料センターに寄りました。入館料310円ながら、中国との交流の歴史や、かつて一乗院という寺院が栄えていた事などを知りました。多くの資料とビジュアルな映像演出で分かりやすく学べます。坊津の港も見渡せ景観も良く、遥か昔を思い浮かべましょう。意外にも優れた歴史資料館です。
歴史資料館から見える東シナ海が建物と融合して素晴らしかった。
戦国島津ゆかりの品々が多数展示されていますが、写真撮影禁止なのが普通評価の理由です。
つわちゃんバスがなんとも可愛らしくて🤗資料館はその名に相応しいセンスのある建物です👍歴史ある資料が展示されています。書ききれませんので、是非足を運んで見てもらえればと思います😊
もっと密貿易の資料があれば良いでしょう。
名前 |
坊津歴史資料センター 輝津館 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0993-67-0171 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.0 |
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日本三大港の一つだった坊津。鹿児島県のどこにあるかわからなかったが枕崎から案内板出てたので寄ってみました。博多、安濃津(三重県)とともに古代から重要な港だった。坊津と周辺にある久志、秋目も含め同じ地域だったのかもしれません。一乗寺という寺がかつてはあり鳥羽上皇庇護であり後に紀州根来寺が坊津を管轄していたようだ。島津氏の庇護もあった。明治時代になり廃仏毀釈により廃寺となった。一乗寺を中心とした寺社の展示、船や貿易の展示などありなかなか興味深い内容でした。中は撮影禁止です。