歴史の息吹、枚岡市石器時代。
西ノ辻遺跡の特徴
枚岡市額田町石器時代遺跡を記念する顕彰碑がある場所です。
昭和16年から発掘調査が行われた歴史ある遺跡跡です。
生駒山麓に点在する縄文弥生時代の人々の証拠を見つけられます。
生駒山麓のこの辺り、縄文弥生の昔より人が住んでいた証拠の石碑。思い返せば、海岸線は河内湾→河内湖と移りゆき、人が住むにはここは最適の土地だったのである。いま海岸線は何十キロも西へ移動してしまった。
今や万代の一角の記念碑と看板だけですが、こちらは昭和16年、現近鉄バス枚岡車庫付近で多量の土器が出土したことを契機に発掘調査が始まった遺跡跡です。弥生時代から中近世あたりまでの集落跡や、大きな貯水池があったらしいです。
新石切プラザの一画にひっそり最近まで気づかずでした。
名前 |
西ノ辻遺跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
2.8 |
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西ノ辻遺跡広大な遺跡があったであろう一画に「枚岡市額田町石器時代遺跡」の顕彰碑が旧国道170号線沿いに建てられています。国道308号線と旧国道170号線の交差点付近より南側一帯に広がっていた弥生時代前期中頃から後期、奈良時代から室町時代に栄えていた集落跡の遺跡になります。昭和19年(1944年)現在の近鉄バス枚岡営業所の場所で開発行為を行った際、多量の弥生土器などが発見されたことにより遺跡の存在が明らかになりました。また、翌年にも遺跡調査が行われ、この時に出土した土器は大阪河内方面における弥生時代中期末から後期の基準資料として貴重なものとなっています。その後の調査で、現在の街並みと異なり縄文時代から南北朝時代まで遺跡の北側を東から西に流れる幅員約15mの川があって、集落や墓地などは川の南側に存在していたことが分かりました。始まりは縄文時代の終末期の一時期に小規模な集落が現れ、弥生時代中期中頃に集落が突如大きくなります。(東西約150m、南北約250m以上)後期は少し規模が縮小し、集落の場所も山側へ移動します。山側へ移動した集落の人たちが、この時期に衰退、消滅した鬼虎川遺跡の人々ではないかと考えられています。遺跡の遺構は、弥生時代の中期後半に方形周溝墓と甕棺墓が川の南岸に沿って存在していました。また、子供の墓である甕・壷棺墓は方形周溝墓に納められるだけではなく、川の岸辺からも見つかっていて、子供だけがそちらに埋葬されることもあったようです。集落跡は墓の南側で竪穴式住居、掘立柱建物や井戸、側溝などが発見されており、墓区域と居住区域が区別されていました。弥生時代後期跡からは大量の土器が川に捨てられた遺構が発見、発掘され、その状況から生駒山麓で最大級の集落であったと考えられています。古墳時代の集落跡の遺構などは不明ですが、鬼塚古墳でも発見されている祭祀場も発見されています。祭祀場は大きな方形の石組貯水施設と木組暗渠で造られたものです。奈良時代の遺構には小型の竈、甕、甑や祭事に使われる小型の国産海獣葡萄鏡などが見つかっています。祭事などに使われた土器や鏡は川の中で発見されており、祭事が終われば川へ投げ捨てられていたと考えられています。恐らく同時代の東側集落であった神並遺跡の人々が村外れの川辺で祭りを行ったのではないかと考えられます。奈良時代終期から平安時代初期に再度、集落が構築されています。以降、室町時代後期まで集落が営まれていきます。鎌倉時代後期の遺構では成人のものと思われる墓が8基発見されています。そのうち2基は屋敷跡の一画に男女各一体埋葬され、頭を北に向け並んで葬られていました。恐らく夫婦と思われ、当時の墓制を知る上の貴重なものとなっています。