猿橋から眺める戦国の景色。
猿橋(武田勝頼公退却路)の特徴
長篠・設楽原の戦いに関わる歴史的な場所です。
武田軍が川を渡った可能性が高いスポットです。
冷たい冬の景色が楽しめる美しい景観です。
イイ景色です。
厳冬期に行ったら、流れのない場所は凍ってた。水の透明感が凄い、底まで見える。しかし、危険箇所が多いので雨の日などは注意が必要です。
三河在住の実弟に連れてこられたのが、この地。大阪育ちの私が、安井天神で感じる哀愁のような感傷を地元の方々は感じておられるのでしょう。1575年5月21日、長篠設楽原合戦の武田方敗走のとき、武田家旗本笠井肥後守満秀は主君に自分の乗馬を譲り自らは我こそは勝頼と名乗って、瀧川郷の領主で織田方に属する瀧川源右衛門助義と組討ち、刺違えて戦死したのがここ橋詰、猿橋の地である。後に、笠井肥後守満秀の子である孫右衛門慶秀は大谷刑部少輔良継に仕えた。井伊直政は時々大谷吉継を訪ねたので笠井満秀の子が大谷家に仕えていることを知った。あるとき井伊直政は笠井慶秀に父である笠井肥後守満秀の最後の様子を話し、笠井慶秀は涙を流して聞いたという。関ヶ原の合戦で大谷吉継が死んだ後、笠井慶秀は井伊直政の話を思い出し、井伊家を訪ねた。井伊直政は彼の亡父の忠節を思って禄を与えて家臣にしたという。
長篠の戦いの「いろはかるた」にある「鵜の首を わたりて押し出す 武田勢」は花の木公園の川の狭まった所と知られているが、本「戦国ウォーク 長篠・設楽原の戦い」の著者は本の中で現地調査から武田軍が川を渡った場所は花の木公園では無くこの猿橋の場所である可能性が高いとしている。
名前 |
猿橋(武田勝頼公退却路) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
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長篠・設楽原の戦いでの武田方の退却路とのことです。馬場信春公が殿(しんがり)としてここで陣をはり武田勝頼公の退却を助け、勝頼公の退却を見届けた後は抵抗することなく敵に首を差し出したそうです。現在の猿橋はコンクリート製のとても小さなものです。場所的に日常的に使用するものでも無さそうです。川の南北両方からアクセス出来ますが、特に南側からは足元が悪く道も分かりにくいので、北側からのアクセスの方が良いかなと思います。