山内公の墓所、静寂の歴史散策。
山内豊信(容堂)家族墓所の特徴
土佐藩の山内容堂公が眠る歴史的な墓所です。
五輪塔のような墓を想像してたが、実際は小さな円墳でした。
大井公園近くの静かな場所に位置し、散策に適しています。
土佐藩十五代藩主で、幕末四賢侯の一人である山内容堂公の墓所。大井公園の隣にありますが、公園からは直接行くことが出来ず、丘の下の入口から訪れるようになります。また墓所内は、あまり手入れがされていないようで、ちょっと荒れた感じがしました。
山内容堂公墓所。幕末の四賢侯「鯨海酔候」山内豊信(山内容堂)さんが眠ります。鮫洲駅徒歩7分。
鮫洲駅から徒歩で4~5分の所で、大井公園に隣接している。土佐藩十五代藩主の山内容堂の墓所です。明治維新の先駆者として幕政にも大きな影響を与えたそうです。46歳で急逝し、遺言により晩年過ごしたこの地に葬られた。他に島津家から輿入れした13代豊熙の正室の墓、16代豊範夫人の墓、山内家合祀の墓があります。
【品川区指定史跡】…指定名称は「山内豊信(容堂)墓」…五輪塔のような墓を想像してたけど小さな円墳でした。山内容堂は神式で葬られたそうなので神道の墓の形状なんですかね?…そういえば徳川慶喜の墓も神式で円墳なのを思い出しました。墓のある高台はかつては大井村の下総山(土佐山)と呼ばれ、北側の大井公園を含めて土佐藩山内家の下屋敷があった場所です。当時は眼前に海が見えてたんでしょうね〜。ちなみに地図上では大井公園と隣接してますが、公園から直接行くことは出来ません。公園の東面に第一京浜と並行する遊歩道を南下すると墓に上る階段が見えてきます。12/29〜1/3は見学出来ません。
品川区の鮫洲と聞けば、直ぐ運転免許試験場を思い浮かべる方が多いと思います。私も学生時代にここで免許証を取得してから更新で何度も来ています。しかし、試験場とは反対側の出口に一度も降りたことがありませんでしたから、土佐藩15代藩主山内容堂(豊信/とよしげ)の墓が大井公園横にあることを知りませんでした。当然、高知県の菩提寺にでも代々の墓があるものと考えていましたからね。意外でした。大政奉還後の明治政府樹立までは、薩摩と長州勢力が主導権を握り倒幕派の王政復古論が出るなか、容堂が主張する徳川宗家擁護論が通らず、京都の小御所会議では酒乱状態で岩倉具視に食ってかかります。福井藩主だった松平春嶽もやや同調しますが、結局は天皇を中心とすべしの倒幕方針が決定されたのです。容堂の根本思想は公武合体論でしたが、それが実らずの時局で、段々と倒幕派の権威争奪が見え透いてきて嫌気がしてきたのでしょうか。明治維新後は、内国事務総裁に就任しますが、明治2年(1869年)にはあっさり辞職します。自らを「鯨海酔候」と称していたぐらいですから、その後は酒豪ぶりと妾三昧の隠居生活だったようで、狂歌にある「楽しみは 後ろに柱 前に酒 左右に女 懐に金」を地でいっていたのでしょうか。決して褒められる姿ではありませんが、きっと、失意を紛らわす方便だったような気も致します。評価はいろいろありますが、土佐の男を感じさせる味のある人物とも映ります。結局、積年の飲酒が患いを呼ぶことになり、明治5年(1872年)に脳溢血で倒れ46歳の生涯を閉じたのです。墓所は、余り手入れが出来ている状態ではなく、勝手な思いですが、在京の高知県人会有志の方々が月に一度でも手入れと酒盛りでもしてあげればなぁ、と思った次第です。ちなみに、松平春嶽と岩倉具視の墓は10分もかからない海晏寺にあります。さらに、20分も品川寄りに歩けば板垣退助の墓があります。これも、何かの因縁でしょうか。
四賢候の一人、山内豊信公の墓所。隣接する小学校の管理ということで入口の整備は出来ているが墓所内はあまり綺麗ではない。また、隣接する公園との塀が低くて簡単に侵入できてしまいそう。
開国に助力した山内家のお墓ある場所です。
やたら階段が立派なのな意外としょぼい。まあ墓だから… それまでの案内不足 入り口が分かりにくい。
小高い断崖の上に小学校と公園に挟まれた端にあります。島津公のお墓、山内公、奥方、山内家合葬の墓が有ります。公園側に入口なし。
名前 |
山内豊信(容堂)家族墓所 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.8 |
周辺のオススメ

開門時間注意。あと公園から直接ははいることはできません。容堂墓と、13代の正室島津侯子墓、16代の正室墓、その他山内家親族合祀の墓があります。容堂は当時は眼下に海を見下ろしていたここを、気に入ってたんですね。