ひっそり佇む昭和放水路。
昭和放水路の記念碑の特徴
昭和放水路は防潮堤の裏に位置しております。
1943年に完成した重要な施設です。
息をひそめた静けさの中に佇んでいます。
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ほぼ気が付く人が居ないと思いますが、ひっそりと防潮堤の裏にあります。
ちょっとよって見て‼️
名前 |
昭和放水路の記念碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
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昭和放水路は湛水被害の防除と優良農地造成を目的として、昭和18年(1943)、長さ1,080m(開渠部898m、暗渠部182m)の施設です。この水路の上流にある富士市東部の浮島沼一帯は、愛鷹山麓の川からの水が流れ込み、沼川を通って吉原湊(現在の田子の浦港)に流れ出ますが、標高差がないため、排水が悪く、たびたび湛水被害が起きていました。この状態を改善するため、原(現沼津市)の増田平四郎(1807~1892)は、浮島沼の大規模な干拓を計画し、現在の昭和放水路と同じ場所に水干(すいほし)といわれる放水路(全長505m、幅7m)を完成させました。しかし、放水路は高波によって破壊されてしまい、その後、昭和18年(1943)に同じ場所に造られたのが現在の昭和放水路です。この放水路により浮島沼の湛水被害の防除や農地造成等の役割を果たしています。広沼橋の近くには、この放水路に関わりがある増田平四郎の像、記念碑、説明板が設置されています。