八丈島で雅な夕日と宇喜多秀家・豪姫の碑。
宇喜多秀家公と豪姫の碑の特徴
南原千畳敷の近くにあり、訪れる価値がある史跡です。
関ヶ原の戦いで流刑となった宇喜多秀家公と豪姫の像があります。
夕日の美しさが際立つ場所で、特別な思い出を残せます。
2024年8月7日に訪れました。慶長5年1600年、関ヶ原の戦いに豊臣方として戦った宇喜多秀家ですが、慶長11年1606年に八丈島へ配流となりました。息子二人と一緒でしたが、妻の豪姫(前田利家の四女で豊臣秀吉の養女)は、生き別れとなりました。34歳で島流しとなり、生涯赦免されることはなく、明暦元年1655年84歳で在島のまま亡くなっています。この夫婦像は、平成9年に岡山城築城400周年の記念事業として建立されたと碑文にありました。二人揃って並んで座っていて、哀愁を誘います。宇喜多秀家のお墓は、宗福寺の墓所にあります。
南原千畳敷のすぐ近くなので寄ってもいいかも。
岡山城の方向を向いているのかと思いきや、大東島の方向を見つめられておられます。南大東島は八丈島出身者の方が多いからかな??
(2022/09) 八丈島最初の流人・宇喜多秀家公は南原千畳敷で釣りをするのが好きだったそうで、それでここに1997年に像が建てられた。旧領地・岡山城を向いてるそうな。石材は花崗岩だと思うが、江姫の方は、ちょっとピンクっぽい石材なのもポイント。
関ヶ原の合戦で敗軍の将となり八丈島に島流しになった宇喜田秀家と前田家の姫で秀家の妻である豪姫の像です。平成9年に宇喜田秀家の居城岡山城築城400年を記念して八丈島に像が建立されました。説明では岡山城の方を向いているとされていますが、全く違う方向を向いているように思えます。宇喜田秀家は八丈島に流されて人生の大半をこの地で過ごしましたが、豪姫は八丈島に来る事は無く、生家の前田家の庇護のもと加賀で人生を終えました。豪姫は関ケ原後、洗礼を受け独身を貫きましたが、宇喜田秀家はこの地でたくさんの子供を造りました。ただ、秀家は前田家の援助で、生産性の低い八丈島でも困窮することはなかったようです。
八丈島で知らない人はいない豪姫は前田利家とまつ夫婦の四女。幼少時に秀吉とねね夫妻に養子に出されました。関ヶ原の戦いから6年後の1606年に秀家は2人の息子とともに八丈島へと流されてきたようです。
豪姫は亡くなってから宇喜多秀家公とここで故郷の方を眺めながら祀られてるのですね。
宇喜多秀家は関ヶ原の戦いで西軍の主力となったため、戦後八丈島に流されました。30代で流されて84歳で亡くなるまで、ずっとこの島にいました。つまり、人生でこの島にいた期間が最も長いのです。
こじんまりしてました。隣の碑が読みづらかった。隣のバーベキュー場は休みでした。
名前 |
宇喜多秀家公と豪姫の碑 |
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ジャンル |
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電話番号 |
04996-2-1377 |
住所 |
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評価 |
4.0 |
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釣りやダイビングに興ずる方が訪れる南原千畳敷看板には南原千畳敷岩海岸とありますが千畳敷が通称お弁当を持ってとか、バーベキューを楽しむことも可能な静かで聞こえてくるのは波音と遠くを奔る漁船の音楽しんだあとはゴミは持ち帰り綺麗な思い出にしてもらえたら嬉しいです来た時よりキレイに・・・ちなみに宇喜多秀家公と豪姫の像は岡山の方向を望んでいるらしいですがちょっと見当違いかなと思いつつもそこは素晴らしい立地を考え遥か昔、秀家公も散策されたのでは?と悠久のロマンに思いを馳せてみては如何でしょう。