中茶屋公園隣、供養塔の荘厳な景色。
島津忠将供養塔の特徴
有村溶岩展望所から約30分の距離にあります。
中茶屋公園の向かいにある狭い道路を利用します。
木々の隙間から見える供養塔は荘厳な雰囲気を醸し出しています。
島津忠将のお墓がある所。通りからの脇道(日州街道)に入ると左手にある。手入れされていなかったので看板の所まで(2024.10.03)
有村溶岩展望所から車でゆっくり走って30分位です。忠将の供養塔は大通りから狭い旧日州街道を少し入ったところにあります。車は大通り沿いの中茶屋公園の駐車場へ停めて歩いて行きました。しばらく行くと更に左手への脇道があり、そこをしばらく進んでいくと草ぼうぼうの中に突然供養塔が現れました。周りの草を足でなぎ倒し写真を撮ってきました。尚、中茶屋公園は旧日州街道における茶屋の跡なのでしょうか?上の茶屋は良質な冷たい水が湧きトコロ天が有名だったと説明されています。できれば食べてみたいと思いました。付近には幾つかの案内板がありますので廻城の戦いの参考になると思います。また、錦江湾越しの桜島も美しいです。さて、島津忠将は島津忠良(日新斎)の二男、貴久の二弟です。この付近に本陣を置き肝属兼続と廻城の攻防戦を行いましたが、衆寡敵せず戦死しました。忠将の子以久(もちひさ)は父の冥福を祈り1575(天正3)年にこの供養塔を建立しました。因みに、案内看板に「二世島津以久(宮崎佐土原藩主)・・・」とありますが、以久が日向佐土原に移封となったのは1603(慶長8)年ですから、垂水在住時に建立したものと思われます。さて、次は、貴久の子、島津四兄弟の末弟家久が初陣で頭角を現した廻城の戦いの敵方の城の跡です。急いで出発しよう。
有村溶岩展望所から車でゆっくり走って30分位です。忠将の供養塔は大通りから狭い旧日州街道を少し入ったところにあります。車は大通り沿いの中茶屋公園の駐車場へ停めて歩いて行きました。しばらく行くと更に左手への脇道があり、そこをしばらく進んでいくと草ぼうぼうの中に突然供養塔が現れました。周りの草を足でなぎ倒し写真を撮ってきました。尚、中茶屋公園は旧日州街道における茶屋の跡なのでしょうか?上の茶屋は良質な冷たい水が湧きトコロ天が有名だったと説明されています。できれば食べてみたいと思いました。付近には幾つかの案内板がありますので廻城の戦いの参考になると思います。また、錦江湾越しの桜島も美しいです。さて、島津忠将は島津忠良(日新斎)の二男、貴久の二弟です。この付近に本陣を置き肝属兼続と廻城の攻防戦を行いましたが、衆寡敵せず戦死しました。忠将の子以久(もちひさ)は父の冥福を祈り1575(天正3)年にこの供養塔を建立しました。因みに、案内看板に「二世島津以久(宮崎佐土原藩主)・・・」とありますが、以久が日向佐土原に移封となったのは1603(慶長8)年ですから、垂水在住時に建立したものと思われます。さて、次は、貴久の子、島津四兄弟の末弟家久が初陣で頭角を現した廻城の戦いの敵方の城の跡です。急いで出発しよう。
中茶屋公園の向かいに、斜めに入る狭い道路があります。そこをまっすぐ進むと忠将公のお墓へ通じる石段があります。いい眺めですよ^_^
2回ほど御参りさせて頂きました🙇遠い御先祖が殿様と一緒にこの地で討ち死にしています合掌。
中茶屋公園から、道路を隔てた所に看板があるので、そこから登っていきます。夏は草が生い茂り歩くのもままならないので避けた方が無難です。島津忠将1520-1561 戦国時代の武将。永正(えいしょう)17年生まれ。島津忠良の子。島津貴久の弟。垂水島津氏初代。天文17年(1548)大隅守護代の本田董親を討ち,大隅清水領主となる。23年蒲生範清の岩剣城攻めで功をたてる。肝付氏に対する大隅廻城合戦で永禄4年7月12日戦死。42歳。初名は政久。通称は又四郎。
石段を登っていくと木々の隙間から供養塔が見えて、なんとなく荘厳な感じの景色だなと感じました。
| 名前 |
島津忠将供養塔 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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中茶屋公園近くから古い時代の街道跡の道を少し登り、さらに案内板から脇へ登って到着します眺めのよい場所を選んで建てたのか供養塔の向こうは海まで見えました供養塔や玉垣の一辺は倒れていましたが、他の方の過去の投稿写真にあった供養塔を倒した原因らしき倒木は除去されていました。いずれ供養塔も積み直されるのでしょうか駐車場はないので中茶屋公園利用がよいかと思います。