言問橋近くで考える戦争の悲惨さ。
東京大空襲戦災犠牲者追悼碑の特徴
東京大空襲の悲惨さを伝える追悼碑がある場所です。
言問橋の近くに位置し、戦争の記憶を感じられます。
隅田公園内に静かに佇む戦災慰霊碑です。
此処で手を合わせて戦没者の供養も良いが言問橋の欄干に注目して欲しい。欄干は東京空襲の惨劇を今に伝えている。欄干の黒い染みは空襲の際に燃えた証。墨田区側と台東区側から避難する人々が橋の上で右往左往して川にみを投げたり焼死された。黒い染みは焼け跡という説と人間の脂だとの諸説ある。改めて被災された方々の御冥福を祈りたい。。合掌。
隅田公園内の碑 戦災慰霊碑 (言問橋入口)「戦災により亡くなられた方々の碑」です。私は願う。全ての魂が極楽浄土、天国へ行けますように。散策しながら、様々な碑と出会います。その時代を生きた人達の思いを考えます。撮影日:2023年7月13日。
公園の1画に、慰霊碑は有りました。空襲により亡くなった人びとの仮埋葬地となりました。私の父親の兄妹も3/10の空襲で死んでいます。
創作数日前、Jアラートが鳴ってびっくりしたが、北朝鮮の弾道ミサイルだと、大騒ぎ。 「太平の眠りを覚ます弾道ミサイル、たった四発で夜も寝られず。」私は1930年(昭和5年)生まれの92歳です。ここ浅草で生まれ、旧制七中、を卒業しました。東京大空襲の時は、東京ガスのガスタンク付近に避難して助かりました。皆んな、ガスタンクが爆発したら危ないと言いましたが、反対方向の言問橋を渡っていたら、焼け死んでいたでしょう。 旧制七中の時には、勤労動員で、モッコを担ぎ道路工事に駆り出され、勉強した記憶がありません。今の、平和橋通り は七中の生徒が作ったのです。終戦後の1946年、食糧難の時代、隅田川では 竪川の千本杭のあたりで、沢山の鰻がとれましたが、それは空襲で亡くなった土左衛門を食べたからからだろうか?
隅田公園のこのあたりは、東京大空襲等で多くの方が亡くなられたとのことです。
第二次世界大戦「東京大空襲」昭和20年3月10日、空襲により非戦闘員で一般の方々が、一夜で10万人余り犠牲なり、犠牲になられた方々を慰霊する追悼碑。戦後75年が経過して、隅田川を挟んで東京スカイツリー、あまりにも対象的で、考え深いものがあります。(合掌)
戦災に遭った方々、関係者がこの地に眠っていますという想いがよく伝わりました。
言問橋、隅田公園。バイクで、東京の靖国神社へ行く時、休憩する場所です。東京大空襲の事は、海老名かよ子さんの本を読んで、かじる位ですが知っていました。この情報の写真を見て、改めて訪れて、手を合わせたい気持ちになりました。昔、元気だった頃に、旦那のおばあちゃんが、東京の空が真っ赤に見えたと、話していた覚えがあります。戦争の事を良く話してくれていた事が、懐かしく思い出します。また、機会を作って、手を合わせに行きたいです。
戦争の悲惨さをたくさんの方からお聞きしました、亡くなった方々の犠牲により日本の平和と再び戦争をしないことを誓ったことを忘れないように受け継いでいきたいです。
名前 |
東京大空襲戦災犠牲者追悼碑 |
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ジャンル |
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電話番号 |
03-5246-1111 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.3 |
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東京大空襲に見舞われた方々を追悼する石碑です。言問橋のすぐ近くにあります。