名前 |
徳定A・B遺跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
昭和50年代に東北新幹線が建設されたときに、調査発掘が行われた際には、縄文時代の土偶が発掘されたと言われている。阿武隈川を挟んで対岸には、大きいところは篠川御所跡、篠川城趾、それらに伴う寺社遺跡、板碑群がひしめき、往時には水運が盛んで、文物流通の拠点となっていたことが伺わせるエリアである。古くは淵ノ上古墳群や、古墳があったと想像される地名も散見される。徳定A・B遺跡側には甚日寺板碑群や御代田舘跡、御代田城、正直舘跡、正直35号墳に代表される正直古墳群もあり、対岸ほどではないにせよ、中世を中心にかなり文化の高いちいきであったことは想像に固くない。当遺跡の今回の発掘は2019年の台風19号水害によるあらたな堤防施設建設地の調査である。10月10日に行われた現地説明会では、古墳時代から中世までの遺構が確認され、やや幅広の溝跡、井戸、住居跡などが発掘されている。遺物としては舶来の青磁や足付きの茶釜など、かなり社会的地位の高い人物が生活していたことがわかってきている。但し、徳定は明治時代までは「木賊田」(木賊が生えるような湿地帯という意味)と書いていたように、たびたび阿武隈川の氾濫により水没していることが明らかになっていて、徳定集落も江戸時代3度にもなる水害により古館地区から直南の現在の微高地に移転していることから、今回の遺跡も水害に遭いながら発展していた遺跡のようである。中世まではたまの水害は受け入れて、水運という経済文化を優先してきた阿武隈川沿いの生活遺跡と言えると思う。