江戸の歴史感じる小塚原。
南千住 回向院(小塚原刑場)の特徴
小塚原回向院は1667年創建の浄土宗寺院です。
江戸の三大刑場跡に位置する歴史ある寺院です。
吉田松陰や橋本左内のお墓がある名所です。
江戸の仕置場(刑場)だった小塚原刑場(浅草刑場)跡が小塚原回向院です。安政の大獄で捕らえられた吉田松蔭・橋本左内・頼三勘三郎らの墓やカールゴッチさんのお墓があります。また、杉田玄白や前野良沢らがここで刑死者の腑分けに立会い、それをきっかけに「解体新書」を翻訳したと言われています。何気に歴史定義のある場所です。
小塚原刑場跡に建つ寺院。首切り地蔵は南にある延命寺の境内にあるので注意。こちらには杉田玄白の観臓記念碑(骸骨を配った凄いデザインだな…)はじめ史跡ゾーンがある。一番奥の一際大きなお墓が橋本左内墓、その隣に吉田松陰墓。相馬大作、雲井龍雄、磯部浅一など各時代の多くの歴史上の人物がここに眠っている。謹んでご冥福を祈りたい。
パッと見た感じでは普通の寺院ですが、江戸時代の三大刑場の一つである小塚原刑場の跡地です。安政の大獄で処刑された橋本左内、吉田松陰のお墓だけではなく、ネズミ小僧のお墓もあるとのことです。
昔の刑場跡に建てられています。
それでも哀しき高橋お伝(荒川区・小塚原・回向院)高橋お伝(嘉永3年(1850年) - 明治12年(1879年)高橋お伝は巷では夫を殺し、古物商を剃刀で喉を切って殺害し、市ヶ谷監獄で打ち首になった「明治の毒婦」として知られている。(写真)しかし実情は母親が奉公先で妊娠し、お腹の子を抱えて嫁いだために出産も喜ばれず、生まれてすぐに養子にだされた。養子先から嫁いだ相手がライ病にかかり、お伝の必死の看病にもかかわらず死亡。後家になったお伝にやくざ者が近づき恋仲となる。どうしょうもないやくざ者は働かず借金を重ねてお伝は経済的に困窮する。その後古物商に愛人になれば金を貸してやると言われて一晩同衾したが、だまされ、殺して金品を奪い逃げた。とらわれた後市ヶ谷監獄で打ち首となり引き取り手のない亡骸は小塚原回向院に埋葬された。(写真打ち首の際にお伝は大変に嫌がったそうだ。恋仲のやくざ者への想いがそうさせたのか。それとも自分の人生に納得がいかなかったのだろうか。南千住駅が直近だが、一駅手前の「三ノ輪」駅で降りて散策を兼ねて歩いてみた。道を間違えて千住大橋まで行ってしまいだいぶ時間を要して到着。お伝の墓石は鼠小僧の墓とともに並んでいた。(写真)いつの間にかお伝の墓を詣でると裁縫が上手くなるとの噂が広がり、今でも墓参の女性が絶えないようだ。今日も花が添えらてていた。不運な出生と男運の悪い人生を必死に生きていたが打ち首となり、毒婦高橋お伝と汚名を着せられて不憫である。近年になって汚名を払しょくする記事などがでている。
小向原刑場跡で杉田玄白らが腑分けに立ち会った。吉田松陰や鼠小僧など処刑されたものたちの墓がある。
2019年11月09日刑死者の解剖に立ち合った杉田玄白、中川淳庵、前野良沢らが解剖図の正確さに感嘆しターヘルアナトミアを和訳、刊行。幕末の医学の発展に大きな貢献をしたとして近代医学発祥の地として記念の碑がある。
小塚原回向院にある吉田松陰のお墓です。ご遺骨は郷里菩提寺、松陰神社に納骨されているそうです。西は鈴ヶ森刑場、東は小塚原刑場と云われる二大刑場がありましたが、こちらのお寺で杉田玄白他が腑分け(解剖)を確認し、解体新書の正確さに感銘し翻訳しました。両国回向院と区別するために小塚原回向院と名付けられました。旧奥州・日光街道に面しています。日本橋から始まり、第一宿場町として千住宿がありました。常磐線・日比谷線・つくばエクスプレス線南千住駅から3~4分のところに位置しています。
歴史を感じます。忘れてはいけないものもあります。
名前 |
南千住 回向院(小塚原刑場) |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
03-3801-6962 |
住所 |
|
評価 |
3.9 |
周辺のオススメ

小塚原回向院は浄土宗のお寺で、山号は豊国山、院号は回向院開山は本所回向院の住職弟誉義観、本尊は阿弥陀如来。墨田区の回向院と区別する為に小塚原回向院と呼ばれています。吉展(よしのぶ)地蔵尊が祀られていることでも知られています。