歴史に触れる高倉神社。
以仁王(高倉宮)墓の特徴
歴史を変えた皇子様の墓である以仁王の存在が印象的です。
治承4年に平家打倒を誓った場所となっています。
高倉神社の隣に位置する隠れた史跡です。
以仁王のお墓。この部分だけ宮内庁管理みたいです。「後白河院天皇以仁王御墓」と彫られた石柱が柵の中の右手にあります。御墓は奥の石鳥居の先にある石かな。静かな場所です。後白河天皇の第二皇子の以仁王は、治承4年5月(1180年)の宇治川の戦いで平家に敗れました。そして以仁王は、この石碑のある場所まで逃れて、流れ矢に当たり亡くなったそうです。しかしながら、後白河法皇は息子の以仁王を謀反人として扱い、最後まで供養を許さなかったそうです。そのため、村人たちは以仁王を哀れに思い、せめてもと彼の塚を作ったと伝承に残っています。後白河法皇の死後、ようやく以仁王の供養が行われ、塚ではなくここに神社が作られました。親子関係の難しさは誰もが経験するところです。そう思いながら、静かな以仁王の墓に立つとやるせない思いを感じます。
墓の無い人生は儚い。
高倉神社にお参りに来て初めてお墓があるのに気づきました。高倉神社の名前の由来はここからきているようです。
好きな人は好きだけど、わからない人には良さはわからない。
歴史を変えた皇子様のお墓。
治承4年(1180)平家打倒の兵を挙げた後白河天皇の第2皇子以仁王(高倉宮)の墓。近くの筒井浄妙と共に宮内庁の管理下にある墓です。宇治川合戦に敗れ、南都に逃れる途中、流れ矢にあたって戦死し、近くにあったこの社に葬られた。ここの神社は高倉神社と言い、墓はこの神社に隣接した消防団の倉庫との間の細い路地を入ったところにあります。以仁王は高倉宮と言われていたので墓に隣接するこの神社は高倉神社と呼ばれるのでしょうが、神社によくある~神社と刻んだ神社名の石碑は見つけることが出来ませんでした。
| 名前 |
以仁王(高倉宮)墓 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| HP |
https://www.city.kizugawa.lg.jp/index.cfm/8,28725,36,420,html |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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《以仁王と高倉神社の由緒》当社は古来より氏神:春日神社として鎮座・祭祀されてきた。1180年(治承4年)後白河天皇第二皇子の高倉宮以仁王は平家討伐を企てそれが露呈して、平家から追討を受けて、宇治合戦で敗れ、奈良の興福寺へ逃れる途中、当村で流れ矢に落命されその御霊をこの地に祀った。没後も源平の戦いは続き、平家滅亡となった。神社は1712年(正徳2年)8月の洪水により社殿が流失し、同年12月10日春日神(本殿)に以仁王が合祀され、春日高倉神社と改称された。その後、1885年に、再度、改称を許可され(明治18年10月5日)高倉神社とされた。近接する阿弥陀寺は、以仁王落命の際、仏事を営み1192年(建久3年)これに因んで山号を高倉山阿弥陀寺としたと伝えられる。高倉神社の南100mの水田中に筒井浄妙坊明秀の墓がある。浄妙は以仁王に従った三井寺(近江)の僧兵で「平家物語」や「源平盛衰記」に描く宇治川合戦で活躍した武勇の僧である。祇園祭りの「浄妙山」はこの僧の頭上を飛び越える一来法師(僧兵)の雄姿が造形されている。浄妙山(保存会)との絆は、1987年にあるきっかけから交流がはじまり、以来7月1日に、浄妙山保存会の方の墓参と高倉神社関係者が祇園祭に招かれることになった。