水無川でホタルと歴史探訪。
懐良親王墓の特徴
熊本唯一の皇族の墓、後醍醐天皇皇子の懐良親王の御陵墓です。
南北朝の歴史に深く関わる、重要な史跡として知られています。
水無川沿いに位置し、夏にはホタルが見られる自然豊かな場所です。
前の水無川で遊びました。浅いし木の影はあるので小さい子供でも遊ばせやすいです。深いところもあるので注意は必要です。深いところでは小学生高学年の子供達が遊んでました。
本殿も無ければ拝殿も無し。鳥居以外は何も無いが、敷地に入ると神々しさを感じる凛とした空気に包まれたのは、肌寒い気温のせいだけではないと思う。自然を崇拝する神道の原点とはこんな感じなのか?
Googleでは好評みたいですが、何にもないっすよ?施錠されてて中には入れないし。
九州道高速八代出口から近く、川沿いの平地にあり、福岡県八女市の山中で探し回ったのと違い直ぐ見つかったので安心してしまい肝心の宝篋印塔の撮影を忘れもう一度行くかと言うとハッキリ懐良親王の陵墓という記述の看板説明書等が少なく、余計宝篋印塔の記述が大切なのですが尚近くに加藤清正公嫡男忠正公の墓所があります。
第96代後醍醐天皇皇子で、征西大将軍として九州に赴き活躍。南朝方の全盛期を築いた方である。後、征西大将軍職を辞し、筑後矢部で病気により薨去された。その墓所については数か所伝えられているのは賢明なる読者諸氏もご存知であろう。宮内庁はこの八代の地を治定している。さらにこの治定を完全なものにしたのは大正5年に発見された親王御自筆銘の宝篋印塔が発見されたことでもあろう。この宝篋印塔は親王御陵墓の傍らにひっそりと佇んでいる。水無川の清流が参詣する人々の心を洗い流すようだ。
連れの希望で探して夕方に到着しました。😅川沿いの入り口から入った御陵さまは、しっとりと雨が木々を洗ったあとで、雨上がりの湿気もサラッとしていておまいりしやすく、鳥の鳴き声が響いて雰囲気が良かったです。😃
ホタル見れますょ。
後醍醐天皇の皇子、懐良(かねなが、又はかねよし)親王のお墓です。南北朝時代に征西大将軍として九州で北朝方の軍と戦ってきた方なので九州にお墓があってもおかしくはないのですが、通行止めの道を避けたところ偶然にこちらのお墓に行き着いてそこが懐良親王御陵だと知ってびっくりしました。墓所については諸説あるようですが、こちらのお墓は宮内庁による認定済みだそうです。墓所はそれなりに広くて親王殿下の墓としても相応しいように思えました。
近くを流れる「水無川」は、ホタルの名所です。
名前 |
懐良親王墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.2 |
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妙見町の水無川沿いの静かな森を思わせる一角に懐良親王の御陵墓があります。この御陵は、良成親王の命により菊池武朝が造営したものだといわれています。懐良親王の御陵墓に関しては、他にも久留米や八女の星野村にも候補地が有りますが、宮内庁認定の御陵墓は、この地となっています。懐良親王は、後醍醐天皇の皇子で、征西将軍として7歳の頃九州の南朝軍をまとめる為に派遣されます。瀬戸内海を経由して6年をかけ鹿児島に上陸を計画し、その後肥後に入国し阿蘇氏を頼りますかかなわず、菊池氏15代武光にめぐり逢います。このときまでは、この八代の地に滞在していたと思われます。1348年には、九州南朝の征西府を菊池に置かれました。その後日本三大合戦といわれる「筑後川の合戦」をへて親王と武光の軍は、九州の首府である大宰府を制圧し、征西府を大宰府に移します。大宰府の征西府は12年続きましたが、室町幕府の今川了俊派遣により、形勢は逆転してきます。武光が亡くなり、懐良親王は征西将軍職を甥の良成親王に譲り、晩年は八女の星野に移住み1383年55歳で生涯を閉じたといわれています。