裏宿七兵衛の義賊伝説。
裏宿七兵衛の墓所の特徴
俊足の義人と称される裏宿七兵衛の首塚跡です。
中里介山の大菩薩峠に登場する場所でもあります。
義賊としての裏宿七兵衛の真実を知ることができます。
中里介山の大菩薩峠にでてくる、義賊_裏宿七兵衛が広まったため、義賊としていわれるが、実際は貧しいもを助けるような義賊ではなかったようである。❶【参考 七兵衛の墓所 日本の首塚 】七兵衛の墓所がつくられたのはごく最近の昭和39年9月である。1つの契機があり、それによりお墓が作られた。墓地の改修に当たって世話人一同が作業しているとき、頭骨が発掘された。それは破片にはなっていたが、頭骨だけであった。この発見に驚いて調査をしてみると、過去帳に次のような起債があった。法山祖幢信士 5月3日年号不知、裏宿人也。俗名七兵衛、由来不可尋。永々回向致者也。回向料施主 下町橋本富蔵これにより寺伝の首供養の話と符合したので、頭骨の出土した場所に建石したという。調査をすると疑問が続出する。5月3日という命日であるが、処刑日は11月25日などなどあるがここでは紹介しない。(省略)❷【参考 谷合見聞録 多摩の歴史 1975年】元文4年(1739年)の項に「10月4日三木村で裏宿の七兵衛、小作の大藏(大藏 は異名にて本名_惣右衛門)、新町の三左衛門、福生の八左衛門、青梅魚売りの善右衛門、日向和田村の五兵衛が召し捕られた。」とある。青梅近郊の盗賊団が一網打尽に捕らえられ、七兵衛はその親分のようである。さらに「10月25日、七兵衛は牢屋で首を切られ、首は青梅へとどけられ、笹のかいと(青梅)で獄門にかけられた。七兵衛の女房は故郷の沢井村へおあづけになり、日向和田村の五兵衛と新町の三左衛門は、百叩きの刑でいのちがたすかったが、小作の惣右衛門は斬り捨てられ、福生の八左衛門は牢死した」とある。
俊足の義人であった裏宿七兵衛の首塚跡と伝わっています。
| 名前 |
裏宿七兵衛の墓所 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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