楠木正成の首塚、歴史の深みへ。
楠木正成首塚の特徴
湊川の戦いで自刃した楠木正成のお首塚です。
足利尊氏の命により祀られた歴史的な場所です。
幕末の天誅組が決起した重要な史跡です。
南朝の忠臣。湊川神社の参拝に引き続きお参りしました。観心寺の国宝如意輪観音は見れませんでした。隣には御村上天皇檜尾陵もあります。
忠臣「大楠公」のお首塚。最近は国内外で政治経済が乱れ狂っていますが、此の国の政治家達は国の将来を見据えた行動と大義を通すことを見習って欲しいものだと感じた。
1336年(延元3年)5月25日、湊川の合戦で破れた楠木正成は、弟正季と差し違えて自刃した。正成の首は一度は六条河原に梟首されるが、その後、足利尊氏の命により観心寺に届けられ首塚として祀られた。
湊川の戦いで敗れ、弟の楠木正季と差し違えて自刃した楠木正成の首は、一時、京都の六条河原に梟首されますが、足利尊氏の命により、ここ観心寺に届けられて首塚として祀られたといいます。
幕末、天誅組は楠木正成首塚の前で決起しました。湊川の楠木正成墓所より交通の便がよくなく、お参りする人は少ない。
観心寺太平記によると楠木正成は、後醍醐天皇からの依頼を受けた後、鎌倉幕府との戦いに向けて妻の久子と子の正行を観心寺に預けている。1336年5月25日に自刀した正成の首は観心寺にいる遺族に送られている。ここには楠木正成の首塚がある。観心寺で生きていた正成の息子である正行(まさつら)が1347年8月26日南朝に組して足利尊氏と戦いを始める。数えて22才。
名前 |
楠木正成首塚 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
4.3 |
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阿野廉子のお墓がこの辺りにあったという説もあるようですね。羽曳野市の杜本神社にも楠公首塚がありました。