光明皇后の慈悲、光明池で発見!
光明皇后御生誕伝承之地記念碑の特徴
光明皇后と女鹿の石像が美しく建立されています。
光明池の名称の由来がわかる貴重な場所です。
光明皇后の慈悲深い生涯について触れることができます。
光明皇后さまと鹿の像があります。白く美しい像です。
どうして光明池という名前がついたのかなどが知ることができる唯一のものです。でも、地元の人たちは像を見すぎて飽きてしまっているようです。😭💔
聖武天皇の皇后、701年生誕、施薬院、療病院、悲田院などを作り、一般人、病人の手当をしたと言われる慈悲に溢れた人、さしずめマザーテレサのような人ではなかったのでは。奈良の尼寺、法華寺は光明皇后の慈悲の心を受け継ぐお寺である。一度訪れたい。光明皇后御生誕記念碑には由来などが書かれているようです。同じ和泉市にもう一ヶ所、光明皇后御生誕地記念碑があるようですが、小さな石碑があるだけのようです。光明皇后は素晴らしい人だったようです。詳しく調べたくなりました。仏教が日本に伝わった頃でもあり、東方キリスト教徒の秦氏一族が大勢で日本の来た頃でもあり、どちらからも影響を受けたのではないでしょうか?石碑に実際の光明皇后がどんな素晴らしい人だったかを調べて書いて欲しいです。牝鹿の伝説は何かを物語になぞらえて作られたのでしょうか?
写真の石碑があるだけです。
・光明池の堤に建立された光明皇后と女鹿の石像と説明文 光明皇后御生誕伝承之地 光明池名称の由来について光明池は、和泉市国分町の浄福寺裏の光明の滝を源にしていることから、この付近に古くから伝わる、光明皇后生誕伝説に由来して、「光明池」と命名されています。昔々、奈良に都のあった頃の話です。国分町の槇尾川のほとりの滝山で、智海上人というお坊さんが仏教の修行をしていたところ、一頭の女鹿がやって来て、上人のお小水をなめて懐妊し、やがて可愛い女の子を産みました。上人は女の子を近所の農家に預けて育ててもらいました。少女が七歳になった年の夏のことです。家族総出で田植をしていました。少女も連れられて来て、田んぼの端で遊んでいました。ちょうどその時、都の大臣藤原不比等が、天皇の使いとして槇尾寺にお詣りした帰りに、田んぼのあたりから、何やら不思議な瑞気が立ち上がり、光り輝いている美しい少女をみつけました。大臣は少女をもらい受けて都へ連れ帰り養女として育てました。光明子と名付けられた少女は、天皇のそば近くに仕えていましたが、やがて天皇の寵愛を受けるようになり、皇后となりました。聖武天皇の后の光明皇后です。皇后は、仏教に対する信心がことのほか厚く、諸国にたくさんのお寺を建てましたが、自分の生まれ育った和泉の地にも一寺を建てました。それが和泉国分寺です。智海上人の修行した滝山には、現在は浄福寺というお寺があり、瀧の寺とも呼ばれています。境内には、上人が修行したと伝えられる石の洞窟や、鹿の足跡が刻まれた石などがあります。大臣が少女を見つけた場所には、「照田、光田」という地名が残り、少女が大臣に連れられて都に上るとき、生みの親である女鹿が、別れを惜しんで見送った場所を「女鹿坂(めまさか)」とよんでいます。また、少女の足は、鹿の足の形をしていたので、それを隠すために袋を作って履かせたのが、「足袋」のはじまりであると伝えられています。光明池副堤防の改修記念に際して、これからも光明池が多くの人々に愛されることを願い、この石像を建立します。光明池土地改良区。
名前 |
光明皇后御生誕伝承之地記念碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
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せっかくの真新しい像ですが、表現がなさすぎ。石材屋さんが道端に並べている看板像みたい。