三木城と織田方の歴史探訪。
平田村山ノ上付城跡の特徴
平田村山ノ上付城跡では羽柴秀吉ゆかりの歴史を感じられます。
三木合戦における付城の重要性を実感できる場所です。
訪問時、山の上には行けなかったものの歴史に思いを馳せました。
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山の上までは行けんかった。Google Mapでも入り口分からず、うろうろしたけど案内になる物は一切なし。
三木の籠城戦の折の織田方の付城。
名前 |
平田村山ノ上付城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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三木合戦の際、羽柴秀吉は平井山に本陣を置きましたが、三木城に物資が入らないよう、廻りに30余りの付城(つきしろ:戦のために築く臨時の城🏰、砦)を築きました。この付城もその一つで、ここを守護したのは、谷大膳亮衛好です。平田山砦とも呼ばれていました。豪将で名を馳せた谷大膳は、身の丈八寸(180センチ)もあり、大力の豪傑であったようです。秀吉の家臣ではなく、織田信長の家臣であり、三木合戦には援軍としての立場であったようです。天正7年9月9日夜、明石から陸路で大村付近まで兵糧を運んできた毛利軍と雑賀衆は、三木城に物資を運び込むために、付城の包囲網を突破する場所として、この平田山砦を狙い、夜襲をかけました。同時に、三木城からも別所長治の叔父 別所吉親を主将とする約3000の兵(吉親の妻も将として出陣)が平田山砦に攻撃をかけました。大軍の毛利別所連合軍に対し、谷大膳の手勢は僅か、谷大膳もなぎなたを手に取り奮闘するも、五十余創を受けて壮絶な最後を遂げることになります。異変に気付いた秀吉は、平井山の本隊を平田山砦に向かわせ、廻りの付城からも参戦し、形勢は逆転し、毛利別所連合軍は敗走しました。谷大膳の嫡男衛友は仇敵の首を取り、父大膳の遺体を取り戻したと云われています。この平田大村合戦で、別所勢は大将格を数十名失い、約八百の兵を失う結果となりました。豪将谷大膳は討ち死にしたが、秀吉軍の大勝に終わりました。これが、三木合戦で最も激しい戦いであった平田大村合戦です。この平田山の南の丘陵、現平田小学校の裏手には、谷大膳の墓があります。地元の金剛寺には、谷大膳及び一族の位牌があります。