戊辰戦争の歴史を感じる、長福寺の石碑。
梁田戦争戦死塚の特徴
足利市梁田町に位置する歴史的な戊辰戦争の戦跡です。
慶応4年に建てられた、重要な石碑が存在します。
長福寺内にある墓地には、戦争の跡が今も残っています。
足利市梁田町に有る長福寺(墓地)内に石碑が有ります。この梁田戦争というのは、戊辰戦争の事で、その戦争で亡くなった方々の為の石碑です。
戊辰戦争の戦跡です。慶応4年3月9日の梁田戦争で死んだ幕府軍の遺体を仮葬してある場所です。当時幕軍は賊軍扱いだったので遺体は正式な埋葬はされず渡良瀬川のほとりに野積み同然に仮葬され「戦死塚」と名付けられました。その後川の流れが変わり浸食により遺体が流出しそうになったため、遺体は長福寺境内に、碑は星宮神社脇に移されました。その後碑も当地に移され、現在に至ります。境内には当時幕軍として従軍した内田万次郎が建てた明治戊辰梁田戦争東軍戦死者追悼碑もあります。
名前 |
梁田戦争戦死塚 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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慶応4年(1868年 )3月9日の早暁。梁田宿は深い朝霧に包まれていました。その霧のなか、ひそかに宿場を包囲して、ひしひしと押し固める軍勢がありました。それは薩摩藩、長州藩、大垣藩からなる官軍200名で、この梁田宿に宿営する幕府軍900名の寝込みを襲おうとしていました。一方の幕府軍は、警戒心が薄く、宿場の遊女と同衾して、甘い眠りを貪っていました。宿場の三方から一斉に襲撃を開始した官軍に対し、完全に不意を衝かれた幕府軍は、身支度を整えるのが精一杯という始末でした。それでも奮戦しましたが、もはや為す術もなく、多くの戦死者を出しながら、会津方面へ潰走しました。この戦いは、東日本に於ける官軍と幕府軍の最初の衝突として「梁田戦争」と呼ばれているそうです。近くの梁田公民館には「弾痕の松」もあります(^_^ゞなお、この戦いが始まったとき、近くの村々では演習が始まったものと思い、多くの見物人が集まりました。激戦の最中、この見物人を目撃した官軍の兵士達は、関東人の胆の太さにビックリしたそうです。なかには、せっかく見物するのだからと、晴れ着に着替え、化粧して出かけた女性もいて、彼女は気の毒にも流れ弾に当たって亡くなったといいます(^_^;)