歴史を感じる一里塚。
奥州街道 石阿弥陀の一里塚の特徴
石阿弥陀の一里塚は慶長期の歴史が息づく場所です。
南北に並ぶ二基の塚が酒を見守る光景は圧巻です。
約10メートルの間隔で立つ塚は歴史の証人です。
石阿弥陀の一里塚(別名 芳野の一里塚)慶長期の初期の奥州道中のルートは、白坂宿から「吉野宿」を通り、鬼越から土武塚を経て城下に入るルートだったという。芳野の石阿弥陀の一里塚は、当初の奥州道中ルート上にあった日本橋から46里目の一里塚である。吉野(芳野)宿は、芳野遺跡として発掘調査が行われた白河南中学校付近にあった。遺跡からは鎌倉時代後半から室町時代の遺物を中心に、江戸時代初期の遺物、縄文前期の土器、石器が出土した。遺構の中央を東西方向に道跡が確認されており、ひとつは遺構の東側にある石阿弥陀の一里塚に向かって伸びる初期の奥州道中跡、もうひとつは鍛冶屋屋敷跡の北側に向かう鎌倉から室町時代と推定される中世の道跡(奥大道か)だ。「吉野宿」は奥大道の時代から奥州道中の付け替えが行われた時期まで存在した。
| 名前 |
奥州街道 石阿弥陀の一里塚 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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南北に二基並立していて、塚と塚との間隔は、約10mである。北側(1号墳)は、直径約12〜13m、高さ3·2m、南側(2号墳)は、直径約7〜12m、高さ2·5m。北側の塚は、ほぼ原型を留めていると考えられるが、南側の塚は、東側が一部欠損している。「白河風土記」の皮籠村の項に、奥州街道(現国道294号線)沿いの一里塚(現在は、一里段の地名のみが残る)とともに、「往古ノ一里塚」、「古街道ナリシ時ノ塚」と記されている。平成十七年(2002)・平成十八年(2006)の「芳野遺跡」の発掘調査で、一里塚の方向に、東西に延びる十七世紀前半の道路跡(幅約8m)の存在が確認された。このことから、慶長年間(1596〜1615)に成立した初期の奥州街道に伴う一里塚と考えられる。塚が二基とも残り、当時の道幅や、白河城下への主要街道の変遷を伺い知ることができる。案内看板を横目に見て、通り過ぎていたが、立ち寄ってみると、重要な一里塚だった。